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アウトバーン

ドイツで建設された自動車専用道路網。ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。

 アウトバーンは、しばしばヒトラーの「唯一の功績」として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛されている。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし・・・」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、36年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。」としている。そして、2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている(下掲)。
 しかし、山川用語集、その他の事典類を見てみると、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている。とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていたことになる。ヒトラーが「建設を推進した」という表現はよいとしても、「ヒトラーが建設を開始した」のではなさそうだ。そのアイディアまでいかにもヒトラーの発案のような理解は間違えている。
 そのことに触れているのが、ゲルハルト=プラウゼの『異説歴史事典』である。同書は「アウトバーン」の項で、ハンス=ヨアヒム=ヴィンクラーの『ヒトラーをめぐる伝説』をもとに「そのアイディアですらヒトラーのものでなかった」として、次のように説明している。(同書ではアオトバーンと表記されている)

ヒトラー以前のアウトバーン建設

 ・ベルリンには1921年に全長9.8キロのアーヴスという自動車専用道路があった。これは1912年に着工されたもので、世界最初のアオトバーンと目されている。
・アメリカのハイウェイはすでに1920年代初めにできていた。
・イタリアでは1923~24年にアウトストラダが建設されていた。
・1926年に「ハンザ諸都市=フランクフルト=バーゼル間自動車道路建設準備会(ハフラバ HAFRABA)が設立され、1927年には全アオトバーン網の構想を発表した(ハフラバは後にこの構想をヒトラーに売り込んだ)。
・1931年、国際連盟の国際労働局のきもいりでジュネーヴで第1回国際アオトバーン会議が開催された。目的はアオトバーン建設によって雇用を創出することであった。
・1932年8月、全長20キロのケルン=ボン間アオトバーンが開通。これはライン州行政府と当時アデナウアー(戦後の西ドイツの首相)が市長だったケルン市によって建設されたもので、一部は失業者雇用のため生産的失業者救済資金から融資された。

アウトバーン建設の「ヒトラー神話」

 以上がヒトラー政権以前の事実である。1933年、ハフラバが全計画を持ち込むとヒトラーはすぐにとびつき、同年9月23日には早くもフランクフルト=アム=マイン近郊で全国アオトバーン網の鍬入れ式を行い、1938年末までに計画線6900キロのうち3000キロが出来上がった。こうしてアオトバーンは総統の「天才的なアイディア」とか「総統の道路」などという宣伝が行われ、後にはヒトラーは1924年のランツベルク刑務所に禁固中に頭の中に交差点のない自動車専用道路というアイディアがひらめいた、という神話が作られた。
 実際には、アオトバーン計画は失業対策も含めてヒトラー以前に存在していたわけである。しかも、このような道路は当時のドイツには贅沢だった。1932年の自動車保有者は住民100人に対して一人に過ぎなかった(同時期のアメリカでは5人に一人)。国民が望んでいたのはアオトバーン建設よりも安価な住宅であった。<ゲールハルト=プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1984 紀伊國屋書店 p.23-26>

出題 東京大学 2008年 第3問 問(10)

 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。
解答 アウトバーン