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ヒトラー

アドルフ=ヒトラー(1889~1945) 第一次世界大戦後のドイツでヴェルサイユ体制打破、ユダヤ人排斥、反共産主義主義を掲げてナチス党を指導、国民的支持を受けて1933年に政権を獲得。以後、独裁政権を樹立してファシズム態勢を固め、生存権の拡張を掲げて近隣への侵略を開始し、1939年の第二次世界大戦の要因を作った。イタリア・日本との枢軸国を結成してアメリカ・イギリス・ソ連などの連合国と戦ったが全面的な敗北となり、1945年5月に自殺し、ドイツも敗戦国となった。

 → (1)政権獲得まで  (2)ヒトラーとナチス政権  (3)第二次世界大戦

ヒトラー(1) 政権獲得まで

ドイツのナチスの指導者。ナチ党に加わって頭角を現しミュンヘン一揆を起こす。

ヒトラーの青春時代

 アドルフ=ヒトラーは1889年、オーストリアに生まれた。父は役人であったが、アドルフは私生児だった。その青年期は挫折の連続で、ウィーンの実業学校は中途でやめ、画家を志して美術学校の入試を受けたが失敗した。

Episode ヒトラーの美大受験失敗

 ヒトラーは18歳だった1907年、ウィーンの造形美術大学を受験した。一緒に受験したのは113人であった。まず二日間の構図試験に合格しなければならない。両日ともそれぞれ4つの課題から二つずつ選び、午前と午後各三時間の間に描かなければならない。課題は「楽園追放」とか「カインとアベル」といった聖書の場面である。この二日間の試験で33人が合格、ヒトラーは合格した。合格者は次に試験の前に描いておいた自分の作品を提出して実力を検査してもらう「作品試験」を受ける。ヒトラーは自信を持って作品を提出したが、結果は不合格であった。作品試験の絵に人間の頭部を描いたものが少なかったから、と大学の記録に残っている。結局合格したのは二人だけだったから、かなり難しい試験だったといえる。大学の学長に面会を求めて落第の原因を聞いたところ、「君は建築科の方が向いているのではないか」と言われた。彼が普段から描いていた絵は事実、建物が多く、人物は少なかった。<村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』1977 中公新書 p.113>

ウィーンからミュンヘンへ

 ヒトラーが鬱々とした生活を送っていたオーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンは、民族問題のもっとも先鋭的なところであり、当時はドイツ系の民族主義運動が台頭し、ハンガリー人やチェコ人との対立、そして経済や文化で優位なユダヤ人に対する反発が強まっていた。ドイツ民族主義、反ユダヤ主義に強く影響を受けたのもウィーンにおいてであった。彼はオーストリア帝国の徴兵を忌避し、1913年にドイツのミュンヘンに移住する。第一次世界大戦が起きるとドイツ兵として陸軍入隊、4年間前線で戦い鉄十字章を授与された。毒ガス傷病兵として後方の野戦病院で終戦を迎えたのが30歳の時だった。

極右政党に参加

 1919年6月、ヴェルサイユ条約が締結され、ドイツ共和国の社会民主党政府はそれを受け入れた。右派は屈辱的な条約は押しつけられたものであると反発し盛んに宣伝した。戦争から復員したヒトラーは、1919年9月、軍司令部から与えられた任務としてミュンヘンの小さな極右の政党だったドイツ労働者党の活動を観察するために参加、まもなくその指導的役割を演じることになった。翌20年2月、ビアホール、ホーフブロイハウスの演説で大衆を催眠にかける演説の才能に自ら気づき、運動にのめり込んでいく。そこで彼はドイツの敗戦と共産主義革命の失敗という混乱の中で、反共産主義とドイツ国家の再建という確固たる使命感を得たようだ。共産党の指導者の多くがユダヤ人であったところからヒトラーはユダヤ人に対する伝統的な反感を巧みに煽る戦術をとった。

ナチ党党首となる

 1920年3月、この小さな政党は国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称し、21年7月、ヒトラーは党の独裁権を付与された指導者(党首)となった。しかしこの頃のヒトラーは、たくさんいる極右活動家の一人、「ミュンヘンの太鼓たたき」としてしか見られていなかった。

ミュンヘン一揆

 ヒトラーが明確に国家権力をめざすことになるきっかけは、むしろフランスが与えた。1923年11月、フランス・ベルギー軍のルール占領とそれによって始まったインフレの進行とでドイツは動揺し、ヴァイマル共和国政府に対する左右両派からの批判が強まった。そのような情勢を後期としたヒトラーは、共和国政府の打倒を図り、軍事政権を樹立しようとして将軍ルーデンドルフを担ぎ出し、ミュンヘン一揆を起こした。しかし国防軍や官僚の反対に遭って失敗し、ヒトラーは投獄された。その間、獄中で記述したのが、『わが闘争』であった。その中でヒトラーはヴェルサイユ体制の打破と、ユダヤ人の排斥、共産主義の危機を訴え、ゲルマン民族の優越性を強調して、第一次世界大戦の敗戦で自信を喪失していたドイツ人の民族心理に訴えた。ヒトラーの周辺には、レーム、ゲーリングルドルフ=ヘスゲッベルスなど、同じような不満分子が集まり、ナチ党の中核を形成していった。

ヒトラー(2) ヒトラーとナチス政権

1933年にドイツ首相となり権力を掌握。ファシズム体制を指導、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅政策を掲げる。

ヒトラーのポスター
ヒトラーの選挙ポスター
 ヒトラーはドイツの国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)指導者として1920年代に登場し、ヴェルサイユ体制の打破、ユダヤ人の絶滅、共産主義の排除などを主張して世界恐慌後の不況に苦しむドイツ国民の心を捉え、1932年の総選挙ではナチ党を第一党に押し上げた。大統領ヒンデンブルクは、1933年1月30日、議会第一党の党首であるヒトラーを首相に任命しヒトラー内閣が成立した。こうしてヒトラーは政権を獲得したが、同じ年の3月、アメリカ合衆国ではフランクリン=ローズヴェルト大統領がニューディール政策を開始した。

権力の掌握

 1933年に首相に任命されると総選挙を布告して、2月に国会放火事件をでっちあげてドイツ共産党を非合法化し、選挙ではナチ党が288議席を占めて反対派を押さえ込み、ヒトラーに4年間の全権委任を認める全権委任法を成立させた。続いて労働組合の解散、共産主義やユダヤ人の著作の焚書、ナチ党以外の政党の禁止を立て続けに実施して独裁体制を確立させた。
 1934年8月、ヒンデンブルク大統領の死によってヒトラーは総統に就任、国家元首として全権を握った。ここに議会制民主主義のヴァイマル共和国は完全に終わり総統国家となった。8月19月には国民投票が行われ、ヒトラーの国家元首就任は承認されたが、それでも429万票の否認票があった。しかし、外交面ではヴェルサイユ体制の打破をかかげ、10月に国際連盟と軍縮会議を脱退するという孤立化にもかかわらず、ザール地方の復帰や英仏に再軍備を黙認させるなどの外交上の華々しい成功を収めると、国民は圧倒的な支持をヒトラーに与えるようになった。
 このヒトラーによる独裁国家はナチス=ドイツといい、一般には、ドイツ第三帝国とも言われる。その体制は、国内には巧妙な大衆宣伝で人心を捉える一方、親衛隊(SS)ゲシュタポなどを通じた軍事警察機構を強化し、言論・政治活動の自由を奪う全体主義、軍国主義の色彩の強い、ファシズム体制といえるものであった。(イタリアのファシズムとはかなり異なる点はあるが。)

1933年の国民的高揚と強制的同質化

 1933年3月5日の国会選挙から同年夏までのドイツでは、当時の人々が「国民的高揚」または「国家社会主義(ナチス)革命」と呼んだ、完全な雰囲気の転換があった。「国民的高揚」は、一つはここに至る数年間の政治的に不確実な状態に対する倦怠と民主主義からの救済と解放をもたらす、秩序と確固たる意志を有する指導者を望んだことと、一つはかつてのような君主政治や貴族政治は望まなかったことの二つの根を持っている。そこにヒトラーが登場したことは、広汎な国民に次のような信念が形成された。
「今は、偉大な時代、国民が再び統一され、ついに国民の神の使い、民衆の中からよみがえった指導者を見つけた時代である。彼は、規律と秩序のために尽力し、全国民の力を統合し、ドイツ帝国を新しく、偉大な時代へと導くであろう、と。」<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.219>
 このような雰囲気のおかげでヒトラーは、政界全体を無抵抗なうちにかたづけ、もはやヒトラーの意志に抵抗できないような状況を導入できたのだった。
 1933年春から夏のはじめ、「国民的高揚」と重なって、もう一つの異常な出来事である「強制的同質化」が進められた。それは政党以外の組織体である労働組合、大工業団体や大利益団体からごく小さな団体まで、指導部が入れ替えられ、国民社会主義の運動と行動を共にするように強制されたことである。それと共に多くの人がナチ党に参加しようと殺到した。その多くの「三月の投降者たち」は国家社会主義者ではなく、単に出生しようとした人たちだった。<ハフナー同上 p.217-220>

ヒトラーの成功

 1934年から1938年にかけて、ヒトラー・ナチス政権は三つの大成功を収め、ドイツ国民の圧倒的支持をえることとなった。
完全雇用の回復 ヒトラーのもとで国立銀行(ライヒスバンク)総裁、さらに帝国経済大臣となったシャハトは、国内経済を外国から厳しく隔絶することによって、インフレ作用を起こすことなく経済繁栄を実現させた。アウトバーンの建設に代表される公共事業によって雇用を回復し、それ以前のデフレ政策に比べて、予想外の経済の好転をもたらした。こうしてヒトラーは完全雇用を実現したが、その実態は軍備拡張による軍需工業と徴兵制によってもたらされたのだった。国民の多くも戦争の危険よりも経済の好転を望んだのだった。
再軍備、軍拡の成功 ヒトラーはヴェルサイユ体制に対する挑戦を開始、ジュネーヴ軍縮会議で軍事の平等を主張し、徴兵制を復活させて再軍備を強行した。これはそれまでヒトラーに対して懐疑的であった国防軍の将校団にとって、昇級欲と栄誉心を満足させるチャンスとなり、ヒトラーに対する服従心を増大させた。ヒトラーはドイツの生存権拡大にとって戦争は不可欠と考えていたが、国民に対しては「戦争のための軍備ではない。ヴェルサイユ体制という不当な仕打ちからドイツの主権を回復させるに過ぎない」と再軍備の正当性を訴えた。また軍隊の増大は巨大な失業対策としても民衆の支持を受けた。
外交の成功 ヴェルサイユ体制打破を掲げたヒトラーは、1933年には国際連盟を脱退し、35年には再軍備を宣言し、さらに1936年にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約を無視してラインラント進駐を実行した。これはフランス・イギリスの反撃が想定され、全面的世界戦争に突入する危険があったため、外務官僚や国防軍幹部はその準備ができていないとして強く反対した。しかし、ヒトラーはフランス・イギリスも戦争に踏み切る決断はできないと判断して、反対を押し切って進駐を強行した。事実フランス軍は、進駐したドイツ軍を過大に見積もり、反撃しなかった。これはヒトラーが神がかり的な勇気のある指導者であるというイメージを作り上げ、「ヒトラー神話」ができあがることとなった。この間、東方に対しては、ダンツィヒの返還とポーランドに対するポーランド回廊での通行の自由を認めるよう圧力をかけた。

ヒトラー政権を支えた暴力装置

 ナチ党が反対党(特に共産党)を暴力的に排除するための装置として、初期からの盟友であったエルンスト=レームが実権を握る突撃隊(SA)があったが、突撃隊と国防軍が対立する中で、ヒトラーは権力維持には国防軍が不可欠と考え、自己の統制に服さない傾向のある突撃隊の排除をはかり、1934年6月30日、レームをはじめとする突撃隊幹部を殺害し抹殺した。同時にヒトラーに対抗する存在はほぼ根こそぎこのときに殺害され、この突撃隊(SA)の粛清によってヒトラーの独裁体制は確立した。その後は、エルンスト=ヒムラーの指揮する親衛隊(SS)ゲーリングの掌握する国家秘密警察(ゲシュタポ)がヒトラー体制の暴力装置として、法や裁判などの手続きを経ずに反ナチ、反ヒトラーの動きを封ずるようになった。

反ヒトラーの動き

 国際連盟からの脱退は国民投票にもかけられたが、95%のドイツ国民が賛成した。ヴェルサイユ体制=国際連盟のもとで、自衛権などのドイツの権利が不当に奪われているヒトラーの主張は、国民に圧倒的に支持された。それに続くヒトラーの外交上の成功は、国内におけるナチスの人権侵害や自由の制限、ユダヤ人排除などに疑問を持っていた多くの国民も、ヒトラーにドイツの未来を任せることに同意した結果となった。しかし、ヒトラーの独裁政治やそれを支えるナチス=ドイツのイデオロギーにすべてのドイツ人が無抵抗であったのではなかった。社会民主党や共産党の活動は禁止されたので地下に潜って活動せざるをえなかったが、そのほかにも、ナチスに対する抵抗運動があったことは忘れてはならない。官僚や軍人のなかにも同調しない者もかなりおり、カトリック教会はナチスがドイツ人の精神をも支配しようとしていることは神を唯一の真理とする信仰の立場から反発があった。またヒトラー=ユーゲントに組織された若者の中にも、自由や他国の文化を否定するナチスに反発を感じる者もあった。しかし反ヒトラーの動きはゲシュタポなどの密告社会のなかで芽を摘まれ、まとまった声にはならなかった。結果としてヒトラーのドイツ支配は1945年5月まで12年間続いた。

枢軸の形成

 ヒトラーの成功は、国内では官僚、軍部などそれまでヒトラーを軽視していた勢力を完全に従属させ、抵抗勢力が無くなったことを意味していた。さらに英独海軍協定を結んでイギリスに再軍備を認めさせると、これらはヒトラーの天才的な外交手腕として宣伝されたが、ヒトラーの力と言うより、イギリス・フランスの宥和政策によるという側面が強かった。
 1936年7月にはムッソリーニイタリアとともに、スペイン人民戦線内閣に対するフランコの反乱を軍事的に支援し、介入した。このスペイン戦争はヒトラードイツにとっては再軍備後の軍の訓練の意味をもっていた。またそれを機に、それまでオーストリアをめぐって対立関係にあったイタリアと若いし、提携を深めてベルリン=ローマ枢軸を形成した。さらに同じくファシズム体制をとる日本との間で、共産主義=コミンテルンに対する共同防衛を建前とした日独防共協定を締結、翌年それはイタリアを加えて三国防共協定に発展した。これらも華々しいヒトラー外交の成功として受け止められ、ドイツ国内におけるその権威と権力は絶対的なものになった。

Episode ヒトラー・ジョーク

 ナチ時代、庶民は密かにヒトラー・ジョークを作って憂さを晴らしていた。ヒトラー・ジョークの一つ。
(引用)ナチ政権成立後、まもなくヒトラーがある精神病院を訪ねた。患者たちはかたまって整列させられ、長い訓練を経てまことに見事に、いっせいに手をあげて<ドイツ式敬礼>を行った。しかし、ヒトラーは、まだ二、三人の腕が敬礼のためにあげられていないのを見とがめて、「どうして敬礼しないのか」と尋ねた。彼の受け答え。
「総統! 私たちは看護人であります。気が狂っているのではありません」。<宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』2002 岩波新書 p.138>
 同書には、ほかにもたくさんヒトラー・ジョークが紹介されている。また、ナチス時代の歴史教育などにも触れている好著である。

ヒトラー(3) 第二次世界大戦

イギリスの宥和政策に乗じて東欧への領土拡張を強行。1939年、独ソ不可侵条約を締結した上でポーランドに侵攻し、第2次世界大戦を引き起こす。41年には独ソ戦が開始される。43年2月以降、守勢に回るが、この間、征服地でユダヤ人の絶滅作戦を実行。反撃に転じた連合軍によって45年5月、ベルリンが陥落し、自殺する。

生存圏の確保をかかげた侵略路線

 1937年11月5日、ヒトラーはベルリンの総統官邸にゲーリング以下の軍の最高幹部、国防相、外相などを招集しナチス=ドイツの秘密会議を開催した。そこでヒトラーは、自分の発言は遺言と見做されてよい重要なものであると前置きして、ヨーロッパ大陸において「生存圏」を獲得する必要、とくにオーストリア及びチェコスロヴァキアを占領する必要を論じ、将来、1943年以後は軍事情勢がドイツに不利になる見透しを述べ、対外膨張の行動を急ぐ必要があると力説した。軍首脳とフォン=ノイラート外相はイギリス・フランスの反対が想定されるので危惧を抱いたが、ヒトラーはこの両国は有効な反対はしないという見透しの下にオーストリア・チェコスロヴァキア占領計画をたて、大国が介入しないうちに電撃戦で事態を有利に収拾できる目算をたてた。<斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.246> → ドイツと第二次世界大戦

オーストリア併合とチェコスロヴァキア解体

 1938年1月25日、ヒトラーは国防省ブロンベルクを罷免、国防軍司令官フォン=フィリッチェを無期休暇をあたえ、2月4日にはヒトラーが新設の国防軍最高司令部の最高司令官に就任、みずからドイツ陸海空軍三軍の統帥権を掌握した。
 1938年3月、ヒトラーは国境にドイツ軍を終結してオーストリア政府を威嚇し、オーストリア併合を実現した。これは、オーストリア出身のヒトラーがかねて目標として掲げていたドイツ民族の統一国家を実現した者として、圧倒的な支持を受けた。さらにヒトラーはチェコスロヴァキア領のズデーテン地方がドイツ人居住者が多いことを理由に、その割譲をチェコスロヴァキアに要求した。チェコスロヴァキアは当然拒否したが、ヒトラーは「民族自決」の原則を掲げて国際問題化し、イギリス・フランス・イタリアとの四国首脳会談ミュンヘン会談の開催に持ち込み、イギリス首相ネヴィル=チェンバレン宥和政策を引き出して、ズデーテン割譲を容認させた。チェンバレンはヒトラーの領土要求はこれで終わるだろうと期待したが、ヒトラーは次いでチェコスロヴァキアの分裂を誘い、ソロヴァキアの独立を認める一方、ベーメン、メーレンを保護領として、一挙にチェコスロヴァキア解体してしまった。

第二次世界大戦

 ヒトラーのドイツはついで、ポーランドに対しダンツィヒの併合とポーランド回廊の鉄道建設、自由通過を要求した。ポーランドはそれを拒否、イギリスは今度はドイツがポーランドを侵攻した場合はポーランドを支援すると表明した。
独ソ不可侵条約 しかしヒトラーは、1939年にスターリンソ連との間で8月23日に独ソ不可侵条約を締結した。ヒトラーの最終的な戦争目的はソ連の共産主義を倒し、ドイツ人の東方生存圏を拡大することであったが、ここでは当面の戦略としてスターリンに提携を申し込んだのだった。ミュンヘン会談などの経緯にイギリスの反ソ姿勢を見抜いていたスターリンも、当面のドイツとの戦争を避ける必要を感じ、その働きかけに同意したのだった。これは、「悪魔の結婚」などと言われて世界を驚かせた。ドイツとソ連の提携に衝撃を受けたイギリスは8月25日、イギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスも同調し、軍事支援を約束した。
ポーランド侵攻 独ソ不可侵条約を締結したた上で、1939年9月、ヒトラーはポーランド侵攻を開始、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告してついに第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍は電撃戦を展開してワルシャワを占領、同時にソ連もポーランド侵攻を実行し、こうして独ソ両国でポーランドを分割した。しかし、イギリス・フランスはポーランドとの相互援助条約があるにもかからず、陸上ではドイツ軍を攻撃せず、ポーランドへの援軍も送らなかった。宣戦布告した国同士が戦わないという「奇妙な戦争」といわれる状態となったのは、双方がポーランドを犠牲にして早期講和の機会を探っていたからであった。
フランス制圧・イギリス上陸失敗 しかし、ヒトラーは東部戦線で勝利を収めると自信を強め、ついに1940年4月から西部方面でも侵攻を開始、6月にはフランスを降伏させた。この大勝利でヒトラーの権威は最高潮に達した。ひき続きヒトラーはイギリス上陸作戦を実行するため激しい空爆を加えたが、チャーチル首相に代わったイギリスが空爆にたえ、この「バトルオブブリテン」でドイツ軍は制空権を得られず、上陸が出来なかった。この間イタリアもドイツに同調して参戦し、アジアではアメリカとの対立が深刻になっていた日本がドイツ・イタリアに近づき40年9月日独伊三国同盟を締結した。
ユダヤ人問題の最終解決 ナチス=ドイツは権力掌握直後からユダヤ人と反政府活動者を収容するために強制収容所を作っていたが、第二次世界大戦開始に伴い、占領地から送られる多数のユダヤ人が送られてくるようになると、ヒトラー・ナチス政権はユダヤ人に対する絶滅方針を固め、ドイツ国内及びドイツ占領地域のユダヤ人を収容し、殺害する絶滅収容所としてアウシュヴィッツ収容所などを建設した。こうしてユダヤ人問題の最終解決と称して、ガス室によるユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)が1940年頃から本格化した。
独ソ戦に突入 1941年、ヒトラーは方向を転じて、バルカン侵攻を開始、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻、独ソ戦を開始した。これはヒトラーの念願であったドイツ人の生存圏を東方に客体することと共産主義国家を絶滅すること掲げた戦争であった。奇襲を受けて後退したロシア軍であったが、ドイツ軍にとっても広大な戦線で戦うこととなり、苦戦に陥ることとなった。しかも同年12月、ドイツの同盟国日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まると、アメリカとも互いに宣戦布告して戦争状態となった。米英首脳はすでに8月に大西洋憲章でファシズムとの戦いで共同戦線を組むことを表明しており、枢軸国と連合国という二陣営による世界大戦という構図が明確となった。
連合軍の反撃 ドイツ軍は、1943年2月、スターリングラードの包囲戦に敗北したことを機に後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられることとなった。早くも43年7月にはイタリアが降伏し、44年6月に連合国軍がノルマンディーに上陸、ドイツ軍は次第に追いつめられていった。ドイツ国内でもヒトラーを排除して、連合国との交渉を行うため、1944年7月20日に軍人によるヒトラー暗殺計画が実行されたが、奇跡的にヒトラーは難を逃れた。ドイツ国内ではミュンヘンの大学生ショル姉妹による白バラ抵抗運動などの反ナチ抵抗運動は反国家活動として徹底的に取り締まられた。

ヒトラー自殺

1945年4月30日、ベルリンの総統地下要塞で自殺し、死体は焼却された。ナチス=ドイツは崩壊し、5月7日、無条件降伏した。
 第二次世界大戦の末期、1945年4月には西からはアイゼンハウアーの指揮する米英を主体とする連合軍、東からはジューコフの指揮するソ連軍がそれぞれベルリンを目指して進撃し、ナチス=ドイツの敗北は濃厚となった。しかし降伏を拒否したヒトラーはベルリンの首相官邸に設けられた総統地下要塞に立てこもり、なおも抗戦の指示を出し続けていた。ベルリンを脱出した総統後継者ゲーリングや、勝手にイギリスと和平交渉を行おうとした親衛隊(SS)指導者ヒムラーはヒトラーの怒りを買い、それぞれ解任された。側近に裏切られたヒトラーは次第に精神の平静を失い、恐怖にさいなまれるようになり、国防軍にベルリン救援を求めたが、もはや動員出来る部隊は存在していなかった。4月28日にはムッソリーニがパルチザンに捕らえられて逆さ吊りにされたことが伝えられ、激しい衝撃を受けた。
 ヒトラーは29日の真夜中、愛人のエヴァ=ブラウンと地下壕の一室で結婚式を行い正式な夫婦となった。それは死を決意していたからであり、翌30日早朝、二人は拳銃で自殺、二人の死体は遺言どおり裏庭でガソリンがかけられ焼却された。
 そのころすでにベルリンに侵入していたソ連軍は首相官邸に近づいていた。ヒトラーから後継首相に指名されたゲッベルスは、ソ連軍の降伏要求を拒否、5月1日、交渉を打ち切り妻マクダと6人の子供を道連れに自殺した。ベルリン防衛地区司令官ヴァイトリング中将がソ連軍と交渉して抵抗中止を決定、午後に首相官邸はソ連軍に占領されたが、ヒトラーの死体は確認出来なかった。<ヨアヒム=フェスト/鈴木直訳『ヒトラー 最後の12日間』2005 岩波書店>
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ノートの参照
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞
第15章4節 エ.ナチス=ドイツとヴェルサイユ体制の破壊
第15章5節 第二次世界大戦
書籍案内

村瀬興雄
『アドルフ=ヒトラー』
1977 中公新書

セバスチャン・ハフナー/赤羽竜夫訳
『ヒトラーとは何か』
1979 草思社

宮田光雄
『ナチ・ドイツと言語
-ヒトラー演説から民衆の悪夢まで-』
2002 岩波新書

ヨアヒム=フェスト
/鈴木直訳
『ヒトラー最後の12日間』
2005 岩波書店

スナイダー/永井淳訳
『アドルフ・ヒトラー』
1970 角川文庫
DVD案内

O.ヒルシュビーゲル監督
『ヒトラー最後の12日間』
ブルーノ・ガンツ主演