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ブルギバ

1956年、チュニジアの独立を実現させた民族指導者。翌年初代大統領となり、87年まで長期政権を握った。

 ハビーブ=ベン=アリ=ブルギバ(1903-2000)、ブルギーバ、あるいはブルンギバと表記する。1956年にフランスからのチュニジア独立を実現させ、57年に初代大統領となった民族運動指導者で独立の英雄とされている。上流軍人の子として生まれ、パリ、ロンドンに留学して政治と法律を学びながら、モリエールやシェークスピアの芝居を好み、ルソー、ヴォルテールを愛読したという。19歳で民族主義政党ドゥストゥール党(憲政党)に入党し、帰国後は弁護士をやまてフランス保護領からのチュニジア独立運動を開始した。同党はイスラーム思想に基づいて反フランスを掲げ、チュニジア人の憲法(ドゥストゥール)の制定を目指していたが、1920~21年に大弾圧を受けて弱体化したため、ブルギバはより妥協的で現実的な政策を掲げて、1934年にネオ=ドゥストゥール党(新憲政党)を結成してた。しかし、より現実的な独立を求める彼の運動は、さらにフランス官憲の厳しい弾圧に遭い、何度も逮捕されて砂漠の収容所に送られ、出獄後はエジプトへの亡命して国際世論へのねばり強い訴えをくりかえした。第二次世界大戦が起こるとチュニジアのベイ政権が枢軸側に傾いたのに対して、一貫して反枢軸の姿勢を貫き、戦後にその評価を高めた。大戦後、1952年には国連に提訴すると、おりからインドシナ戦争アルジェリア戦争で苦しんでいたフランスは、ようやくブルギバを交渉相手と認め、数度の交渉の結果、1956年に独立を承認した。この独立は、モロッコ独立と同年であり、1960年のアフリカ諸国の独立(アフリカの年)に先立ち、それに強い影響を与えた。

チュニジア共和国の樹立

 1956年にフランスは完全独立を認めたが、当初はチュニスのベイ(太守)を君主とするチュニジア王国としての独立であり、ブルギバは首相となった。ブルギバは王政ではない共和国を目指し、早くも翌57年7月に国王を追放して、自ら大統領に就任しチュニジア共和国となった。ブルギバは内政では離婚の承認、一夫多妻の禁止、婚姻年齢の17歳への引き上げなど女性の地位向上を中心とした世俗化を進め、チュニジアのケマル=パシャといわれることもあった。外交面ではエジプトのナセル大統領との協力関係によって、残存していたフランス軍基地を奪還するなど積極的な第三世界の指導者の一人としての活動を展開し、1960年代からは社会主義に傾斜して、ネオ=ドゥストゥール党も社会主義を冠することとした。1980年代にはイスラーム過激派が台頭すると、それに対しては厳しく弾圧した。1987年、腹心のベン=アリを後継者に指名して引退するまで、30年にわたる長期政権を維持した。

Episode ブルギバ!!

 チュニジアでは独立の父ブルギバの人気は高かった。生誕地のモナスティールには1963年に高さ40メートルあまりの塔のあるブルギバの名を冠したモスクとブルギバ家の廟が建造された。1960年代末にチュニジアを訪れた文化人類学者川田順造の『マグレブ紀行』にはその様子が描がかれている。
(引用)カイラワンの郊外に、9年がかりで建築中だった大統領の邸が、ようやく落成して、はじめてこの邸にブルギバ大統領夫妻を迎えるというので、カイラワンの町はひどく騒々しかった。町のあちこちに歓迎アーチがたてられ、ブルギバ大統領の特大の写真を飾った宣伝カーが、音量をいっぱいにあげたスピーカーからこのブルギバ賛歌と、「ブルギバ!!」という言葉が、ほとんど語句の切れ目ごとに発音される。・・・この歌は、私もすっかりメロディーを覚えてしまったが、何としても人をメデタイ気分にさせずにおくまいといったその節回しが、ブルギバ音頭と言う言葉を私に思いつかせた。・・・・あとで知ったことだが、カイラワン地方では、これより少し前に、農民の大規模な反乱が鎮圧されたばかりだったという。<川田順造『マグリブ紀行』1971 中公新書 p.56-61>
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ノートの参照
第16章3節 ア.アフリカ諸国の独立
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川田順造
『マグリブ紀行』
1971 中公新書