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チュニジア(1) カルタゴの繁栄からフランスの保護国へ

マグレブ地方の旧カルタゴの地。ローマに征服され、ローマ帝国に支配される。5世紀にヴァンダル人が王国建国するも、ビザンツ帝国に滅ぼされる。7世紀以降、イスラーム化し、いくつかの王朝が交代した後、オスマン帝国領となり、1881年フランスの保護国とされる。第二次世界大戦後の1956年に独立。

 → (2)チュニジアの独立 

カルタゴの繁栄

 チュニジアはアフリカ北岸、マグリブ地方の中央部に位置する。中心都市はチュニスで、その近郊には古代カルタゴの遺跡がある。かつてフェニキア人の建てたカルタゴ帝国として栄えた。ローマとのポエニ戦争ではカルタゴの町は徹底的に破壊され、その結果、この地はローマの属州となった。

ヴァンダル王国とビザンツ帝国

 5世紀にゲルマン人の一派であるヴァンダル人が遠く東ヨーロッパから移動し、イベリア半島を経て北アフリカに入り、さらにこの地にヴァンダル王国を建設した。しかし、533年、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝は地中海に進出し、ヴァンダル王国も滅ぼした。この地はビザンツ帝国の支配に服することとなった。

イスラーム帝国の支配

 この地の住民はベルベル人であったが、677年にウマイヤ朝のイスラーム帝国が、軍営都市(ミスル)としてカイラワーンをこの地に建設し、ビザンツ帝国を駆逐してアラブ化が進み、西方マグリブ地方のベルベル人地域へのイスラーム教進出の基地となった。

イスラーム地方政権の興亡

 750年にウマイヤ朝からアッバース朝に代わり、マグリブ地方もバグダードのカリフの支配を受けたが、8世紀後半にその統制力が弱まると各地に地方政権が分立するようになった。チュニジアにおけるその後のイスラーム教国家は次のような経緯を取った。
アグラブ朝(800~909) カイラワーンを都にアッバース朝の宗主権を認めつつ自立した。アグラブ朝は艦隊を整備して地中海に進出し、シチリア島、イタリア半島、フランス南部などに海上から遠征軍を送り、地中海を制圧し、中世ヨーロッパを圧迫した。特にシチリア島には827年に攻撃を開始し、878年にはシラクサを占領し、11世紀後半のノルマンの進出までのイスラーム支配時代の基礎を築いた。
ファーティマ朝 10世紀初頭にシーア派を奉する信仰運動がこの地に起こり、ムハンマドの娘ファーティマの血統をひくと自称するファーティマ朝が起こって、909年にアグラブ朝を倒した。ファーティマ朝は急速に北アフリカを支配したが、まもなく東方のエジプトに入り、カイロを建設して本拠をエジプトに移し、シリアにも進出するようになった。
・ズィール朝(972-1148) ファーティマ朝が去ったあとのチュニジアにはベルベル人の地方政権のズィール朝が成立、当初はファーティマ朝の宗主権を認め従っていたが、次第に独立の姿勢を強め、アッバース朝カリフに従うようになった。そのためカイロのファーティマ朝はアラブ系遊牧民を使ってズィール朝を攻撃させ、そのためにカイラワーンは破壊された。その結果、アラブ系遊牧民の移住が進み、ベルベル人との同化が進んだ。ズィール朝は1070年に分裂しアルジェリアにハンマード朝が分立したが、そのような混乱のさなか、南イタリア・シチリア島にはノルマン人の侵出があいつぎ、1072年にシチリア島を奪われ、さらにチュニジア本土もノルマン人の侵攻を受けた。
ムワッヒド朝の支配 ズィール朝の分裂やノルマン人の侵出という混乱状態が続くうちに、西方のモロッコに起こったベルベル人のムワッヒド朝がその勢力を東方に伸ばしてきて、ノルマン人を撃退すると共に、ハンマード朝・ズィール朝を滅ぼし、1152年からはチュニジアもその支配を受けることになった。
ハフス朝 ムワッヒド朝が衰退すると北アフリカ各地に後継国家が分立したが、チュニジアには1228年にムワッヒド朝のチュニス総督がハフス朝(1228~1574)として自立した。1270年にはフランス王ルイ9世の率いる第7回十字軍がチュニスに来襲したが、ルイ9世はこの地でチフスに罹って死んだため不成功に終わった。

Episode チュニジア生まれの歴史家

 イスラーム世界の歴史家として名高いイブン=ハルドゥーンは1332年にチュニジアのチュニスで生まれた。彼はイスラーム法の法官(カーディ)としてチュニスの王に仕えたが、宮廷内の紛争を逃れて西方に向かい、イベリア半島のグラナダのナスル朝に仕えたが、そこでも安住できずモロッコのフェスやアルジェリアのトレムセンなどの地方政権に仕えながら転々とした。最後は母国チュニジアに戻ったが、法官として行政能力を発揮したのはほんの数年だったらしい。かれはマグレブ地方とイベリア半島のイスラーム諸国を遍歴しながら、それらの諸国が成長・衰退をくりかえすのを見て、一つの歴史理論を組み立てた。さらにその理論を確かめるべくマムルーク朝の都カイロに移り住んで膨大な書物、『歴史序説』を著述した。イブン=ハルドゥーンは現在もチュニジアの産んだ偉人としてチュニスの町に大きな銅像が建てられている。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.30-33>

オスマン帝国による支配

 ハフス朝時代のチュニスは地中海の中央に位置することから、シチリア島や各地との交易で栄えていたが、内紛から次第に衰え、海賊に脅かされるようになった。
海賊バルバロッサ 特に有名なのがバルバロッサ兄弟といわれる海賊で、彼らはレスボス島出身の海賊で地中海を荒らし回り、アルジェリアを根拠とし、弟のバルバロッサ=ハイレッディーンは1534年にチュニジアを占領した。ハフス朝のスルタンはスペインの神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)に救援を要請、翌年にカール5世はバルバロッサ弟をチュニジアから撃退した。しかし、バルバロッサはオスマン帝国のスレイマン1世に服してオスマン帝国艦隊を率い、1538年にプレヴェザの海戦でカルロス1世のスペインとローマ教皇などの連合艦隊を破り、オスマン帝国の地中海制海権の確立に貢献した。
フサイン朝 こうしてオスマン帝国は1574年にチュニジアを征服しハフス朝を滅ぼした。その後、19世紀までオスマン帝国領として続き、イスタンブルのスルタンが任命するパシャの下で、内政と徴税を任されたベイが現地人から撰ばれた。次第にベイが自立する傾向が強まり、18世紀にはフサイン家がベイとして実質的にチュニジアを支配するようになった。これをフサイン朝(1705-1957)ともいう。

フランスの保護国化

 近代に入ると、地中海の対岸であるフランスとイタリアがチュニジアの地への侵出をはかるようになった。まずフランスは1830年のアルジェリア出兵後、1842年に直轄地としたので、その維持には隣接するチュニジアの領有が必要と考えるようになった。
フランス・イタリアの抗争 1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フランス・イタリアの管理下に置かれ、1873~77年の改革派官僚のハイルッディーンによる改革が行われたが宮廷内の保守派の反対で成果を上げることが出来なかった。普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジアに進出したのでフランスは危機感を強め、1878年のベルリン会議(1878)では各国に働きかけてチュニジアにおけるフランスの権利を認めさせ、1881年、軍隊を派遣して首都チュニスを占領して保護領とした。それに反発したイタリアは、ドイツ・オーストリア=ハンガリーに近づき、1882年三国同盟を結成する。

チュニジア(2) 独立から現在まで

1956年にフランスから独立。その後、独立指導者ブルギバとその後継者ベン=アリ長期政権が続き、2011年に民衆法の蜂起による民主化が実現し、ジャスミン革命と言われて他のアラブ諸国に大きな影響を与えた。

 チュニジアはオスマン帝国の形式的な宗主権のもとで、ベイ(太守)であるフサイン家が自立(フサイン朝ともいう)していたが、1881年にフランス軍が上陸してチュニスを占領、83年にマルサの協定によって正式に保護領となった。フランス保護領下ではフサイン朝のベイは名目的権威を保持したが、外交・軍事などの権限はフランスが握った。

チュニジアの民族運動

 フランスの保護国となる前の1870年代に改革派の官僚ハイルッディーンを中心に民族的な近代化運動が始まった。彼は1875年にサーディキー=コレージュという中等教育機関を設立し、宗教教育と並行してヨーロッパ人教員による外国語・科学など近代的教育を実施し、エリートの養成を図った。このサーディキー=コレージュ出身者を中心に1907年に青年チュニジア党が結成され、独立と立憲君主政を求める知識人の運動が開始された。1911年にイタリアがチュニジアの東のトルコ領トリポリ・キレナイカ(現リビア)の領有を図ってイタリア=トルコ戦争(伊土戦争)が起こると、青年チュニジア党の運動は大衆運動と結びつき急速に発展し、1920年にドゥストゥール党(憲政党)が結成された。これは、1861年に制定された憲法(ドゥストゥール)の再施行とフランス保護領支配の終結を掲げてる民族主義政党として発展した。この党員であったブルギバは、フランスで法律と政治を学びながら独立への意欲を燃やし、より現実的な要求を掲げて1934年にネオ=ドゥストゥール党(新憲政党)を結成、フランスからの独立闘争を呼びかけた。

ブルギバらの独立運動

 ブルギバはフランス当局による逮捕、亡命などの苦境にあったが、1952年にフランスによる抑圧を国連に提訴したがフランスは激しい弾圧を加え独立を認めなかった。しかし、戦後のフランスの国内政治の不安定、同時にインドシナ戦争などの緊迫もあって、1954年マンデス=フランス首相はチュニス(旧カルタゴ)に飛び、軍事・外交を除いた自治権を付与した後に、独立を認める約束をした。国際世論に配慮するとともに激化する隣のアルジェリア独立運動が飛び火することを恐れたからであった。アルジェリアにくらべれば、チュニジア及びモロッコは比較的入植者の数が少なかったので、自治付与に踏み切ったものと思われる。それでもこの2国が独立したことは、アフリカ諸国の独立が相次いだ1960年の「アフリカの年」の先駆けとなった。<フランスの国内事情に関しては渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.69-74 などを参照>

ブルギバ大統領

 1956年にフランスは完全独立を認めたが、当初はチュニスのフサイン朝のベイ(太守)を君主とするチュニジア王国としての独立であった。首相となったブルギバは共和国の樹立を目指し、早くも翌57年7月に制憲議会がフサイン朝の廃止と共和制の樹立を宣言してベイ(国王)を退位させ、自ら大統領に就任して共和国となった。ブルギバは女性の権利をたかめるなどの世俗化政策を進め、エジプトのナセル大統領にならって1960年代からは社会主義に傾斜して、ネオ=ドゥストゥール党も社会主義を冠することとした。しかしエジプトがイスラエルを承認するとエジプトとの関係は悪化し、1982年にはイスラエルのレバノン侵攻でベイルートを追われたアラファト議長のパレスチナ解放機構(PLO)をチュニスに迎え入れ、その活動を保護した。しかし、政権が長期化するなか、イスラーム過激派が台頭すると、それに対しては厳しく弾圧した。

ベン=アリ政権

 1987年、ブルギバの引退に伴いベン=アリが大統領に就任、後継者として指名されての就任であったが、ブルギバ政権の基本方針を転換し、無血クーデターとも言われた。ベン=アリ政権は社会主義路線から転換して社会主義ドゥストゥール党を立憲民主連合と改称し、政治犯の釈放、多党制を認めるなどの一定の民主化を実現した。彼は独立運動に参加した後、軍人として活動して軍を押さえ、圧倒的な国民の支持を背景に、憲法改正を繰り返して大統領任期を延長し、政権の独占を図った。チュニジアはアルジェリア・リビアという東西の隣国に比べて民主化、解放の度合いが進み、一定の経済成長も実現していたが、ベン=アリ政権の一族による不正や貧富の差の拡大などが次第に顕著となってきた。

ジャスミン革命

 2010年12月、チュニスで一人の青年が街頭で野菜を売ろうとしたところ、警官に野菜を没収された。青年が抗議の焼身自殺。その知らせがインターネットやツィッターによってチュニジアのみならず、世界中に知られれ、それがきっかけで一挙に反ベン=アリ政権の運動が激化した。ベン=アリは鎮静化をTVで訴えたが、長期政権と一族の不正にうんざりしていた国民は抗議の声を治めなかった。首都チュニスが争乱状態となる中で、肝腎の軍部が反政府側に着くことを表明、一気に情勢が進展して、2011年1月14日に大統領一族はサウジアラビアに亡命、23年にわたる長期政権があっけなく倒れた。これはチュニジアのもっとも一般的な花の名を取ってジャスミン革命といわれるようになった。その後、安定した民主政権づくりは困難が続いているが、この革命は劇的な広がりを見せ、3月にはエジプトのムバラク政権が倒れたのを初め、他にシリア、イエメン、シリア、リビアといった北アフリカから西アジアにかけてのアラブ諸国の長期政権をゆさぶる大きな動きとなった。この動きはアラブの春といわれるようになった。

革命後の苦悩

 2011年のジャスミン革命でベン=アリ政権が倒れた後、新憲法の制定を目的とした制憲議会の選挙が行われた。イスラーム教を政治理念とする政党ナハダが第一党になったが、単独では政権を維持できず、世俗政党との連立となった。革命後は低迷する景気の回復に失敗、失業率も増加し、社会不安がひろがり、イスラーム過激派が台頭した。
 「アラブの春」後のアラブ諸国の革命政権にはこのような課題が共通していた。チュニジアでも安定を求める声が強まり、2014年10月に実施した総選挙ではイスラーム政党ナハダに代わって世俗派政党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ、の意味)が第一党となった。ニダチュニスには旧ベン=アリ政権の与党メンバーやビジネス界、労組関係者が多く、ナハダの政権運営能力の低さに失望した有権者の期待をうけており、ナハダ党首も現実的に協力を表明しているという。<朝日新聞 2014年10月31日記事></span>