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民族浄化

1992年~95年のボスニア内戦で起こった、対立する民族に対する集団的虐殺行為。

 1992年~95年の間に展開したボスニア内戦の過程で、対立するセルビア人・ムスリム人・クロアティア人の間で起こった、他民族に対する組織的な排除、集団殺害する行為が「民族浄化」という名の下に行われた。この内戦での死者は約25万人とされている。当初はボスニアのセルビア人勢力とその背後にあったセルビア共和国軍による戦争犯罪とされ、その首謀者としてセルビア共和国のミロシェヴィッチ大統領などが告発された。しかし、現在ではセルビア人だけではなく、ムスリム人、クロアティア人側にも同様な行為があったことが問題とされている。

ボスニア内戦とは

(引用)そもそも、ボスニア=ヘルツェゴヴィナは宗教を異にする三者の合意を大前提として成立していた(ユーゴスラヴィア連邦内の)共和国であったが、独立の是非をめぐる見解の対立が表面化してしまった。ユーゴの縮図と言われたボスニア=ヘルツェゴヴィナでは、ユーゴが解体の歩みを歩むにつれ、その影響を受けざるをえなかった。セルビア人勢力は連邦の解体により、ボスニアで数の上では第二の地位が固定化してしまうことを恐れて、独立に強く反対した。ここでも(クロアティアと同じく)「セルビア人問題」が浮上したのである。ボスニア内戦では、ムスリム人、セルビア人、クロアティア人の三者がそれぞれの領域の拡大に奔走した。三者はそれを進める際、他民族を排除して民族の住み分けを実現するための手段を講じた。これが「民族浄化」と称される政策であり、この結果、ボスニア=ヘルツェゴヴィナだけで、被災者・難民は総人口の約半数、250万人近くに達している。・・・戦闘を通じてセルビア人勢力が6割以上、クロアティア人が3割弱、ムスリム人勢力が1割を勢力下に置くことになる。<以上 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波書店 p.178-179>

民族浄化を裁く

 1993年、ハーグに旧ユーゴ戦犯法廷(正式には、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所 Internathional Criminal Tribunal for Former Yugoslavia 略称ICTY)が開設されている。この裁判に関して、2001年に判事として参加した多谷千香子さんの報告<多谷千香子『「民族浄化」を裁く -旧ユーゴ戦犯法廷の現場から-』2005 岩波新書>がある。
 この裁判所は、1993年5月25日の国連安保理決議827によって設立され、そのイニシアティヴを採ったのはアメリカのクリントン政権で、ロシア、中国も賛成した。裁判の対象となる罪(戦争犯罪)とは、①捕虜虐待などの従来の戦争犯罪、②戦争法規・慣習に違反する罪、③人道に反する罪、④ジェノサイド(集団虐殺)の罪、で特に④が加えられたことが意義がある。
 裁判では、当時の政治指導者(セルビア共和国大統領ミロシェヴィッチなど)が起訴されたが、ボスニアのセルビア人勢力責任者のカラジッチなどは逃亡した。またクロアティアのトゥジマン、ボスニアのムスリム人指導者イゼトベゴヴィッチらは起訴前に死亡した。また軍隊指揮官、警察責任者、強制収容所関係者などが起訴され、2004年までに39名が有罪とされた(3年から35年の有期刑)。

最も忌まわしい集団虐殺(ジェノサイド)

 ICTYで認定された有罪とされたものにスレブレニッツァ虐殺事件がある。1995年7月、セルビア人勢力の支配に落ちたスレブレニッツァでは最後まで居残っていたムスリム人約7000人が生き埋めにされたり、喉を裂かれたりして殺された。幼い子供も母親の目の前で殺されたり、祖父が死んだ孫の肝臓を食べるように強制されたり、第2次世界大戦以来の最も忌まわしく大規模な事件となった。そこには国連保護軍(UNPROFOR)が守っていたが、セルビア人勢力攻撃する権限は与えられていなかったため虐殺を傍観する結果となった。<多谷千香子 同書 p.128-131>
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書籍案内

多谷千香子
『「民族浄化」を裁く
-旧ユーゴ戦犯法廷の現場から-』
2005 岩波新書