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クリントン

アメリカ合衆国第42代大統領。民主党。1990年代後半、アメリカ経済の再興に務めた。パレスチナ自治協定の締結、ボスニア和平に成功したが、ソマリアなどでは失敗した。

 アメリカ合衆国の大統領で、在任1993~2001。民主党。戦後生まれでベビーブーム世代の最初の大統領。学生時代はベトナム反戦運動にも関わった。カーター以来の民主党大統領であるが、80年代に低迷した民主党は、従来のリベラル色、労働組合色を薄め、新保守主義に傾斜し、経済政策も「大きな政府」から市場経済重視の「小さな政府」論に転換していた。クリントンはそのようなニュー民主党のホープだった。32歳の最年少でアーカンソー州の知事に当選、南部の保守層にも支持を広げ、黒人層や共和党政権からの転換を望む国民の期待を担って92年に大統領に当選した。しかし94年の中間選挙は上下院とも共和党が制したため、その政策はより中道色を強めた。経済面ではIT(情報技術)産業の発展に支えられて好景気に恵まれ税収が増え、また支出を押さえたため1998年に29年ぶりに財政黒字に転換した。夫人のヒラリー=クリントンは2008年の民主党大統領候補に名乗りを上げたがオバマに敗れ、2009年発足のオバマ政権で国務長官に就任した。

クリントンの外交

 外交面ではオスロ合意をもとにイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放戦線のアラファト議長の和平を、アメリカが「お墨付き」を与えるという形でパレスチナ暫定自治協定を1993年に実現させた。しかし、95年にラビン首相が暗殺され、パレスチナ和平は遠のいてしまった。95年7月には懸案であったベトナムとの国交回復に踏み切り、戦闘終了20年目にしてベトナム戦争の完全な終結をもたらした。
 東ヨーロッパではユーゴスラヴィアの解体後、民族間の対立が激化していた。クリントンは旧ユーゴのボスニア紛争でも介入し、95年末に和平協定を成立させた。99年のコソヴォ紛争ではNATO軍とともに人道的介入と称してセルビアへの空爆に踏み切った。
 アフリカでは東アフリカのソマリアで91年から続いていた内戦が深刻化し、ここでも人道的支援と称して米軍を派遣したが18人の海兵隊員が殺害されて世論が後退し、94年春までに撤退させた。この失敗のため、ルワンダでの大量虐殺に対しては介入を躊躇し、被害を拡大させてしまった。
 対ラテンアメリカ外交では、懸案の北米自由貿易協定(NAFTA)を、共和党の合意を得て、1994年1月の発効に漕ぎ着けた。これについてはメキシコで激しい反対運動が起こった。
 また北朝鮮の核開発疑惑が浮上し、IAEAの査察を拒否、93年にはNPTから脱退した。クリントン政権は経済制裁を発動、両国関係は緊張したが、特使としてカーター前大統領を派遣し、金日成との交渉が成立して、北朝鮮にエネルギーの提供の代償として核開発を凍結させた。しかし北朝鮮の核開発疑惑はその後も続いている。 → アメリカの外交政策

Episode 大統領の不倫騒動

 クリントン大統領のアーカンソー州知事時代の不正疑惑の捜査過程でとんでもない副産物が出てきた。女性インターン(見習いに)と大統領のホワイトハウスでの性的行為が発覚したのだ。1998年1月、クリントンはテレビで全国民に否定したが、独立検察官の詳細なレポートが出され、認めざるを得なくなった。その年の末、下院は大統領弾劾裁判を決め、翌年1月上院で弾劾裁判が行われた。焦点は、クリントンの行為を大統領として認められないとするか、大統領の職務を遂行する能力とは関係がないとみるかであったが、裁判は大統領の無罪を判決した。夫人のヒラリーが、夫の愚行にめげずに、保守派の陰謀であるという訴えたのが功を奏したのだ。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 2002 中公新書 p.190-193>
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ノートの参照
第17章1節 ア.米・ソ軍縮と緊張緩和