印刷 | 通常画面に戻る |

ミロシェヴィッチ

ユーゴスラヴィア連邦を構成していたセルビア共和国の共産主義者同盟の指導者。1989年からセルビア共和国大統領、97年からは新ユーゴスラヴィア連邦大統領。ユーゴスラヴィア内戦では連邦維持を掲げ、独立を宣言したクロアティア、ボスニアと内戦を闘い、またセルビアからのコソヴォ独立要求を厳しく弾圧した。2000年に選挙で敗れてから、非人道的な民族浄化の首謀者として国際裁判に付されたが、無罪を主張、2006年に死去した。

 1986年、ユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビア共和国の共産主義者同盟議長となった。1989年~97年はセルビア共和国大統領をつとめ、1997~2000年は新ユーゴスラヴィア連邦大統領であった。ティトー死後のユーゴスラヴィアでセルビア民族主義を標榜して国民的な支持を集め、独裁的な力を振るった。ユーゴスラヴィア内戦ボスニア内戦コソヴォ問題などで徹底したセルビア人民族主義の立場でムスリム人やクロアティア人に対する非人道的な攻撃を容認したとして、国際刑事裁判所に訴追された。

セルビア民族主義を鼓吹

 彼は1974年のユーゴスラヴィア連邦憲法が共和国や自治州の権限を拡大しすぎたために連邦の結束が弱体化したと考え、セルビア人主体の連邦体制を維持するために憲法改正を目指した。それに反発したアルバニア系のムスリムの多いコソヴォ自治州で、セルビア人に対する迫害事件が生じると、その自治権を制限して独立運動を厳しく弾圧、セルビア人の保護を実行したのでセルビアでは高い人気を獲得した。その後、民族主義傾向を強め党内の穏健派、民主派を弾圧して権力を握り、その「大セルビア主義」はクロアティア人やムスリム人を刺激し、1991~2年のセルビアとモンテネグロ以外の4国の独立宣言の要因となった。ユーゴスラヴィア内戦およびボスニア内戦でもミロシェヴィッチはセルビア大統領、さらに新ユーゴの大統領として強硬路線を続け、クロアティアやボスニアのセルビア人勢力を支援した。

戦争犯罪人として裁かれる

 しかし、長引く内戦による経済疲弊は次第にセルビア人の中にもミロシェヴィッチの民族主義路線に対する疑問が生まれ、1998年のコソヴォ紛争勃発後はミロシェヴィッチ離れが急速に進み、その後、その強引な戦争指導だけでなく、政敵の暗殺、身内の蓄財、不正選挙などが発覚し、2000年の大統領選挙で落選し、その指導力を否定された。
 2001年4月に逮捕され、7月からハーグの国連旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)で「民族浄化」など人道に対する罪などの容疑で裁判が開始された。セルビア政府はNATO諸国が経済支援を条件としてあげたので、ミロシェヴィッチ引き渡しに協力したと言われている。ミロシェヴィッチは、裁判の正当性を非難して無罪を主張し、長期化したが、判決の出るまえの2006年3月に収容先で死去(脳溢血と思われる)したため、終了した。
印 刷
印刷画面へ