芸術はときに権力と深い関わりをもつが、そのひとつの例を、フランスの画家ジャック=ルイ=ダヴィドに見ることができよう。フランス革命前のフランス美術界を支配していたのは、国王政府から特権を与えられた王立絵画彫刻アカデミーであった。美術の新たな潮流である新古典主義様式の中心人物であったタヴィドは、アカデミーと対立していたこともあり、革命が勃発すると古い体制を壊す革命派の陣営に属した。
1789年5月にヴェルサイユで開かれた( a )では、特権身分代表と第三身分代表が対立し、第三身分代表は国民議会の成立を宣言し、宮殿の( b )において、( c )が制定されるまでは解散しないことを誓いあったが、91年に描かれたダヴィドの代表作のひとつ「( b )の誓い」は、この歴史的事件を絵画として記録しようとした国民議会の後援を得たものであった。
やがてダヴィドは、直接に政治の世界に足を踏み入れる。(A)1792年9月、議会の議員に選出されたのである。議会では、93年1月に行われた国王( d )の裁判において、これを有罪とする投票を行った。また、ロベスピェールとも親しい間柄となり、公教育委員会の有力メンバーとして、(B)93年、94年に行われたさまざまな革命の祭典の準備に携わった。この間、ダントン、ロベスピエールとともにジャコバン派の指導者であった( e )が93年7月に暗殺されると、ダヴィドはその葬儀の責任者となり、同時に自ら「( e )の死」を描いた。
( f )の反動によってロベスピェールが失脚すると、ダヴィドは、処刑は免れたものの1年あまりの獄中生活を余儀なくされた。その後、革命軍の将校であった(C)ナポレオンが軍隊を基盤にして権力を掌握すると、王党派から命を狙われていたダヴィドは、ナポレオンに接近し、かれを称える絵画を制作し始めた。1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると、その主席画家の称号を与えられ、「ナポレオンの戴冠式」を描く。しかし15年、( g )の戦いに敗れた(D)ナポレオンが最終的に失脚し、復古王政の時代になると、ダヴィドはブリュッセルに亡命、この地に没した。