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第1章 オリエントと地中海世界

第3節 ローマ世界 解説と補足

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ア.ローマ共和政 ノートへ-1

補足:ローマの建国神話

ロムルスとレムス
帝国初期の国民的詩人と言われたヴェルギリウスの『アエネイス』には、ギリシアのトロヤの勇将であったアエネイスが、トロヤが落城したため各地を漂浪してイタリアにたどり着き、ティベル川のほとりラティウムに町を建設したことが物語られている。その子孫のロムルスとレムスの双子の兄弟は、王位をめぐる内紛から籠に入れられて川に流されてしまった。イチジクの木に引っかかったところを雌オオカミに助けられ、二人はオオカミに育てられる。二人は協力して仇敵を倒し、鳥占いでロムルスが初代の王となった。しかし兄弟は仲違いし、ロムルスがレムスを殺し絶大な権力を獲得し、新しい都はその名にちなんでローマと言われるようになった。その紀元前753年4月21日はローマ建国の日とされ、キリスト紀元が用いられるまでローマの紀元元年とされていた。現在もローマ市はオオカミとロムルス・レムスの像を市のシンボルとしている。

補足: エトルリア文化

エトルリア人は前7~前6世紀ごろ最盛期となり、北イタリアで多彩な文化を発展させている。その特色はギリシア文化の影響を受けたながら、陶器や巨大な墳墓などを残したことである。前534~509年ごろ、タルクィヌスが王としてローマを支配していた。この間、ラテン人も彼らの影響を受けながら、生産力を高め、その社会では貴族と平民の階層分化が進んだ。
イ.地中海征服とその影響 ノートへ-2

補足:アッピア街道

アッピア街道

アッピア街道


解説:ローマ市民権

 はじめはローマに居住するもののみが市民とされていたが、その支配圏を拡大させるにともない、征服した都市の市民にも市民権を与えた。ただし、市民権の範囲の違いによって上記の植民市、自治市、同盟市の違いを設けた。アテネの市民権法ではアテネ居住者以外に市民権を認めなかったのとは異なる。市民権が認められればローマ法の保護を受けることができたが、ローマ居住以外の市民も形の上ではローマの35の区(トリブス)に属するものとされ、直接民主政の原則であるからローマまで行かなければ意見を反映させる機会はなかった。また同盟市の市民には市民権を与えなかったので、紀元前1世紀になると、彼らの中にも市民権を要求する声が強まって同盟市戦争が起こり、結果としてイタリア半島内の全自由民に拡大され、さらに3世紀の初めのカラカラ帝の時に属州も含めた全帝国内の自由民に認められることとなる(万民法)。

補足:地中海支配の影響

 都市国家から始まったローマが「帝国化」することにともない地中海各地の富がローマに集中し、経済も発展して未曾有の繁栄期を迎えたが、同時に征服戦争の長期化、属州からの奴隷・穀物の流入は中小農民を没落させ、大土地所有制を発展させて共和政の基盤がくずれることとなった。文化的にはギリシアを征服したことによってヘレニズム文化がローマに流入し、ギリシア建築、ギリシア彫刻、ギリシア文学、哲学などの影響のもとでローマ文化が形成されることとなる。

解説:閥族派と平民派 二派の対立

 この二派の対立は閥族(門閥)派と平民(民衆)派という名称から、階級的な対立ととらえられがちではあるが、そうではない。いずれも支配者に属する人々の間の政治的な対立であり、経過としては、新興の騎士階級であったマリウスがユグルタ戦争で戦果を上げて台頭し、元老院を無視して権力を振るおうとしたことに対して元老院の権力を守ろうとした保守派が閥族派を結成、マリウスのグループがそれに対抗したので平民派と言われるようになった。その時の政治的な関係から派を変えている例も多い。スラは貧乏貴族でマリウスの副官であったが後に対立し、閥族派の中心人物となる。ポンペイウスはその部下だったので閥族派であるが、後半は平民派を味方にしようとしている。カエサルはマリウスと血縁関係があり平民派に属した。
ウ.内乱の1世紀 ノートへ-3

補足:マリウスの足跡

前111~前105年 ▲a ユグルタ戦争  北アフリカのヌミディア王の反乱を鎮圧。
前88年 コンスルとなりローマを制圧し、平民派を弾圧。マリウスはアフリカに逃亡。
前88~63年 ▲b ミトリダテスの反乱  小アジアのポントス王の反乱。
 ポンペイウスとともに鎮定にあたる。その間、ローマは平民派が権力を回復。
前82年 ローマに戻り独裁官として実権を握り、平民派を追放。

補足:カエサル

カエサル
 カエサルはローマ史でもっとも知られた人物で、残した名言が多い。生まれは前100年(または前102年)、貧乏貴族であったが軍事的才能で台頭し、三頭政治の一角を占め、ガリア遠征で実績を積んだ。ローマに残ったポンペイウスが政権を独占しようとすると、ガリアから急遽戻り、「賽は投げられた」と称してルビコン川を渡り、ローマに迫った。ローマを逃れたポンペイウスはエジプトに向かうがそこで殺されてしまう。彼を追ってエジプトに入ったカエサルはプトレマイオス朝の内紛に巻き込まれたがクレオパトラと結び、結婚する。ローマに戻る途中、小アジアを平定、そのときの報告が有名な「来た、見た、勝った」だった。ローマに戻ったカエサルは終身独裁官に任命され、最終的には皇帝の地位を狙ったが、共和派のブルータスなどによって暗殺され、果たさなかった。最後の一言が、「ブルータスお前もか!」だったという。
エ.ローマ帝国 ノートへ-4

補足:ローマ帝国の皇帝

 ローマ皇帝は形式的には元老院で選出されたが、実質的には、カエサル家ともいうべき、カエサルとその養子オクタウィアヌスの血筋の者が継承した。第2代のティベリウスは初代の養子であったが、近衛軍司令官セイアヌスの専横があり、一時政治が混乱した。次のガイウスも初代の孫娘を妃としていた。あだ名がカリグラ、悪政で知られる。次のクラウディウスはガイウスの伯父で、ブリタニア(現在のイギリス)を属州とした。その後妻アグリッパの連れ子がネロで、次の皇帝となり、悪政とキリスト教徒迫害で有名。つまりこの段階はローマ皇帝と言ってもその権威は安定していなかった。
 ローマ帝国が安定したのは1世紀末のウェスパシアヌス帝のころで、ユダヤ戦争で勝利してパレスチナを制圧した。この皇帝の時、ローマのコロシアムを建設が開始された。有名なヴェスヴィオス火山の噴火でポンペイが埋没したのは79年のことである。

説明:トイトブルクの戦い

dの「トイトブルクの戦い」とは、紀元9年、アウグストゥス帝の時、ローマ軍がゲルマン人に敗れた戦い。現在のドイツ北西部に当たり、ローマ帝国はここまで進出したが、ここで初めてゲルマン人に敗れ、これ以上は進めなかった。ローマ軍はウァールスという将軍に率いられていたが、治世中唯一の敗北を喫したアウグストゥスは「ウァールスよ、世の軍団を返せ!」と嘆いたという。
オ.3世紀の危機 ノートへ-5
カ.西ローマ帝国の滅亡 ノートへ-6
キ.キリスト教の成立 ノートへ-7

補足:キリスト教の成立過程

 b ヘロデ王 がアウグスティヌスの承認を得てユダヤ王となる。
 → その死後ローマの属州になる。  → 被征服民族としてのc ユダヤ人 の不満 → ユダヤ教の救世主待望感が強まる。
・従来のユダヤ教の形骸化  → 三派に分かれる。
 d パリサイ派 :律法の厳格な遵守と形式的な儀礼を重視。
 サドカイ派:イェルサレム神殿の祭司を中心とし政治に妥協的。
 エッセネ派:パリサイ、サドカイ両派を批判、禁欲的な宗教運動を展開。
 → この派に属するクムラン教団の文書類が発見されている(死海文書)。
 預言者の活動:バプテスマのヨハネなどが終末が迫っている事を人々に説き、悔い改めをつよく求める。悔い改めた人に洗礼を与えた。

補足:イエス・キリストの教え

 ユダヤ教では、神は恐ろしい裁きの神としてとらえられていたが、イエスは民族や貧富の差をこえた、無差別で平等な愛を人々に及ぼす「愛の神」であると説いた。さらに、神の愛(アガペー)にならい、人々に隣人愛を説いた。『新約聖書』に見るイエスの言葉には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」、「汝の敵を愛し迫害する者のために祈れ」などがよく知られている。また、パリサイ派の人々の「ローマに対する税は納めるべきか」という問に対して、「カエサル(皇帝)のものはカエサルに、神のものは神に」と答えたこともイエスの思想を示す言葉としてよく知られている。
ク.迫害から国教化へ ノートへ-8

補足:正統と異端

 キリスト教の正統と異端の論争、いわゆる“神学論争”は信者以外にはわかりにくいが、簡単に言えば、イエスを人間とみるか、神とみるか、の対立だった。アタナシウスはイエスは人性をもつと共に神と同格の神性ももつとしたが、アリウスは神の本姓は分割できないとして、イエスは「神聖であっても神性はない」、つまり平たく言えば人間であると主張した。ニケーア公会議ではアタナシウス派が正統とされたが、ついで精霊をどう見るかが問題となった。精霊とはイエスの死後、信者の心に宿り信仰を導く働きがあるとされるが、それ自身を神とすれば、キリスト教は多神教になってしまう。そこでアタナシウス派では、イエスは神性と人性の両性を有し、父なる神とその子イエス、そして信者の胸に宿る精霊は、それぞれ別な位格(ペルソナ)をもつが、実体(サブスタンシア)において一体であるという三位一体説を作り上げ、381年のコンスタンティノープル公会議で正統として確認された。それに対して、ネストリウスは神性は分割できないとして反対し、イエスの人性は仮のもので、受肉によって神性のみを持つたと主張したが、エフェソス公会議で異端として退けられた。イエスの両性を否定して神性のみを認める単性説はなお根強かったが、451年のカルケドン公会議で異端とされ、三位一体説の優位が定まった。

補足:キリスト教の広がり

 ネストリウス派キリスト教はローマ領内で布教できなくなり、東方のイランに布教されササン朝で広まった。さらに中央アジアを経て唐代の中国に伝えられて景教と言われるようになり、長安の都には景教寺院がつくられた(唐の文化で学習する)。キリスト教はローマ=カトリックだけでないことに注意しよう。エジプトに伝えられたキリスト教はコプト教会といわれ、イスラーム教に同化せず続いている。他にエチオピア、シリア、アルメニアなどにも独自のキリスト教が存在している。
ケ.ローマの生活と文化 ノートへ-9

解説:ポリビオス

 ポリビオス(ポリュビオス)はギリシア人の捕虜出身で、ポエニ戦争に従軍した。『歴史』を著し、国家の政体は、君主政→暴君政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政→君主政と循環すると考えた。それを政体循環史観という。またローマの台頭の理由を、君主政と貴族政と民主政が混合しているところに強さがあると分析した。


第1章第3節 ローマ世界 解説・補足 終わり

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