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アレクサンドリアの建設

アレクサンドロス大王が遠征地にギリシア人を入植させて建設した都市。70カ所以上にわたったが、中でもエジプトのアレクサンドリアが最も栄えた。

 アレクサンドロス大王の東方遠征の過程で、征服した各地にギリシア人を入植させて建設した都市。記録に残されているだけでも70ヵ所あるという。現在、遺跡として確認されている「さい果てのアレクサンドリア」は、中央アジアのシル・ダリヤ河畔に建設された。最も有名な例であるエジプトのナイル河口に前331年に建設されたアレクサンドリア市については、アッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』が、大王自らがこの町の設計に当たったことを伝えている。 → アレクサンドリア(エジプト)の繁栄

資料 エジプトのアレクサンドリア

(引用)カノボス(ナイル川三角州の西端)に着いてマリア湖を岸沿いに周航したアレクサンドロスは、現在彼にちなんで命名されたアレクサンドレイア市があるあたりで陸に上がった。上陸してみるとその場所は、町を建設するのにもってこいの適地であって、そこに建設された町は将来、きっと繁栄におもむくだろうと思われた。そして実際この事業を起こそうという願望が彼をとらえたのである。彼は自分でも、市場は町のどのあたりに設けるべきか、神殿はいくつ程、それもどんな神々のための神殿を建立すべきか、そのうちにはギリシアの神々にささげられるのもいくつかあったし、エジプトのイシス女神を祀る神殿もあった、それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は、どのあたりに築いたらよいかなど、新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどしたのである。これらのことに関し彼は、供犠をとり行なって神意をうかがったが、犠牲に現われたところは吉であった。……<アッリアノス、大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫 p.188>

アレクサンドリアの建設

 エジプトのアレクサンドリアについてはローマ時代のプルタルコスの『対比列伝』(英雄伝)では、アレクサンドロス大王が、夢の中でホメロスに導かれてファロス島に隣接したこの地を選んだという話が載っている。このようにアレクサンドロスによるアレクサンドリア建設については伝説がいろいろあるが、この地が選ばれた最大の理由は、それ以前からエジプトのナイル河口で唯一の港であったファロス島の港に近く、ファロス島と地続きにして新港を建設し、地中海への進出の足場にしようとしたのだと思われる。アレクサンドロスはペルシア帝国を滅ぼした後は西に向きを変え、地中海を征服するプランをもっていた。地中海を含む大帝国の都としてアレクサンドリアを想定していたらしい。その実現の前に、前323年、バビロンで突然の死を迎えたのだった。
 大王の死後、エジプトはディアドコイ(後継者)の一人であったプトレマイオスが支配することとなった。エジプトのアレクサンドリアの建設は、このプトレマイオス朝エジプトの初代プトレマイオス1世(ソーテール)およびその子の2世(フィラデルフス)が実質的に進めた。なお、アレクサンドリアでも最も良く知られた建造物であったムセイオンとその付属の大図書館は、かつてはプトレマイオス2世の時に建設されたと言われているが、現在では1世の時に建造が開始され、2世が完成させたと考えられている。

参考 アレクサンドリア建設の実際

 アレクサンドロス大王が征服地に多くのアレクサンドリアを建設し、ギリシア人を入植させたことは、東西融合を進め、ヘレニズム文明を生み出すこととなった、という説明をするが、そのような戦争による征服と植民活動は、新たな文明を生みだしたという側面ではなく、そのことそのものの意味を考えておくことが必要である。
 森谷公俊氏の『アレクサンドロスの征服と神話』には、大王による入植政策には「ギリシア人の不平分子の隔離」という側面があったと説明している。
(引用)都市アレクサンドリアの建設は、しばしば大王の東西融合政策の一環として語られるが、実態を見ればそれはまったくの的外れである。そこに入植したのはギリシア人傭兵、退役したマケドニア人、地元住民の三種類で、住民にはその土地の戦争捕虜も含まれていた。このうち最も大きな割合を占めたのがギリシア人傭兵である。ドイツの古代史家ヘルフェによると、前334年から前328年までに遠征軍に編入されたギリシア人は、最大限に見積もって4万4000人に及び、そのうち少なくとも2万5000人が東方に入植させられた。この中にはペルシア軍に雇われた後に投降した兵士も少なくない。・・・元をただせば彼らはギリシアの祖国を失った者たちであり、フィリッポスやアレクサンドロス自身によって追放された者も含まれていた。彼らはマケドニア人と大王に強い憎しみを抱いており、帝国にとって政治的にも社会的にも危険な存在だった。それゆえ彼らの入植には、不穏分子を僻遠の地に隔離するという狙いがあったのである。ついでに隔離という点では、マケドニア人兵士も例外ではない。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.140
 また、大王に不満を持つギリシア人入植者は、たびたび反乱を起こしているという。
(引用)ギリシア本土から5000キロも離れた僻遠の地で、ギリシア人入植者はその後どうなったのか。厳しい自然条件、流刑同然に扱われたという屈辱と疎外感、ギリシア風の生活に戻りたいとの思い、マケドニア人との軋轢、地元住民の敵意、これらが重なり、もともと定住する気のない彼らが不満を鬱積させたことは想像に難くない。前325年、インダス川で大王が死んだという噂が広まると、バクトリア、ソグディアナ地方のギリシア人が入植者3000人が決起した。彼らは首府バクトラ(現バルフ)を占領したが、帰国の方法を巡って対立し、指導者も殺されて集団は分裂した。翌年にはインド地方のマケドニア人総督フィリッポスが、ギリシア人傭兵に暗殺されるという事件が起きた。これもインドに無理矢理残留させられたことが背景となり、何かのきっかけで両者の対立が爆発したのであろう。さらに前323年に大王が世を去ると、東方諸属州のギリシア人が一斉に反乱に立ち上がった。その総数は歩兵が二万、騎兵は3000に及ぶ。摂政となったペルディッカスは軍を派遣して鎮圧に当たらせ、3000人を殺害した。生き残ったギリシア人はそのまま残留し、その後の後継者戦争に参加することになる。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.141