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ディアドコイ/ディアドコイ戦争

「後継者」の意味で、アレクサンドロスの武将たちのこと。前323年の大王の死後、互いに争い、勝ち残った三人がアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトに分立した。

アレクサンドロス大王の後継者たち

 アレクサンドロス大王に従って、その東方遠征に従事した有力武将たちが、大王の急死(前323年)後、たがいに後継者(ディアドコイ)であることを主張して争った。有力なものが7人ほどいたが、アンティゴノス、デメトリオス、カサンドロス(マケドニア)、リュシマコス(アナトリア)、セレウコス(シリア)、プトレマイオス(エジプト)等が特に有力であった。このディアドコイ同士の争いであるディアドコイ戦争は前323年から前276年までの約50年にわたって展開された。

Episode アレクサンドロスの嫉妬心

 アイリアノス『ギリシア奇談集』によると、アレクサンドロスは、実は配下の部将たちに嫉妬し、嫌っていたという。
(引用)ピリッポス(フィリッポス2世)の子アレクサンドロスは、配下の部将たちに対して嫉妬心(あるいは敵愾心)がすこぶる強く、どの人間についてもよく言うことはなかったが、その理由は様々であった、と伝えられている。戦術に巧みであるという理由でペルディッカスを憎み、統率の才があるというのでリュシマコスを、勇敢であるというのでセレウコスに敵意を抱いていた。またアンティゴノスの野心満々たる性格も彼の気にさわり、プトレマイオスの要領の良さにも疑念を抱くし、アタリアスの放埒、ペイトンの謀叛心を恐れてもいた。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.438 ほぼ同じ話は、p.317 にも出ている。>

アレクサンドロス大王の死

 アレクサンドロス大王は、前323年6月10日、バビロンで死去、32歳余であった。後継者についての遺言はなく、しかも後継者となり得る成年男子の王族はいなかった。側近たちはとりあえず、異母兄弟のアリダイオス(知的障害があり軍事や政治の能力はなかった)をフィリッポス3世として即位させ、妊娠8ヶ月だった妻ロクサネが男子を産めばその子を王位に就けることとした。2ヶ月後に生まれたその子がアレクサンドロス4世として即位すると、側近の中からペルディッカスが摂政となった。摂政は側近たちを集め、総督領を分け合ったが、ほどなく大王の遺領を巡って争うこととなり、約半世紀に及ぶ後継者戦争(ディアドコイ戦争)に突入する。<以下、森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.279-286 による>  → アレクサンドロス大王の死

ディアドコイ戦争の開始

 摂政ペルディッカスは本国のマケドニアの代理統治者であったアンティパトロスの娘を妻としていたが、権威をつけるため大王の妹クレオパトラと結婚することを望み、妻を離婚した。激怒したアンティパトロスとの間で戦闘が始まった。さらにペルディッカスは大王の遺体を巡って対立したエジプト総督プトレマイオスを攻撃するためエジプトに遠征したが失敗して殺されてしまった。その後、後継将軍たちはシリア北部の町トリパラディソスに集まって会議を開き、総督領の再分配を含む協定を結び、アンティパトロスを摂政に選んだ。アジア方面の軍隊指揮権は古参の将軍、隻眼のアンティゴノスが握った。

マケドニア王家、血肉の争い

 摂政となったアンティパトロスであったが、すでに大王生存中から、大王の母オリュンピアスとは不仲で、両者は大王にたびたび相手を貶す手紙を送り争っていた。前319年、アンティパトロスは死期を迎え摂政の後継にポリュペルコンという無名の軍人を選ぶと、無視された実子のカッサンドロスはアジアのアンティゴノスとむすんで反旗を翻した。ポリュペルコン側はロクサネと大王の遺児アレクサンドロス4世を擁し、大王の母オリュンピアスもこちらを強く支持した。カッサンドロス側はフィリッポス3世(アリダイオス)とその妻エウリュディケを擁したので、マケドニアの王権が二つに分裂して争うこととなった。
 前317年秋、勝ち気な20歳のエウリュディケは知的障害のある夫を差し置き事実上の王として振る舞おうとし、カッサンドロスの軍を待たずに兵を挙げた。ピュドナで両軍が向かいあうと、エウリュディケ側の兵士の中に大王の母オリュンピアスへの敬慕と大王への恩顧を忘れなかったものが多く、一斉に寝返ったため、戦闘は行われずエウリュディケはフィリッポス3世ともども捕らえられてしまった。オリュンピアスはただちにフィリッポス3世を殺し、エウリュディケを自殺に追いこんだ。しかし、カッサンドロスの本隊が到着すると形勢逆転、ピュドナの町は包囲され、長い籠城戦の末に前316年春に落ち、オリュンピアスは処刑された。フィリッポス2世の妻でアレクサンドロス大王の母であったオリュンピアスはこうして約60歳の生涯を閉じた。※大王の母オリュンピアスについては<森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス』2012 ちくま学芸文庫 p.108-9 初出は1997 ちくま新書>を参照。
 カッサンドロスは大王の異母妹テッサロニケを妻として箔を付けると、邪魔になったロクサネとアレクサンドロス4世を監視下におき、事実上、幽閉した。前311年、アンティゴノス、カッサンドロス、リュシマコス、プトレマイオスの余人は現状維持を約し、アレクサンドロス4世が成人するまで(当時12歳)カッサンドロスをヨーロッパの将軍とすることを定めた。しかしカッサンドロスは翌年、ロクサネとアレクサンドロス4世の母子を密かに殺害した。
 カッサンドロスの妻テッサロニケの名は、都市テッサロニカの名にとどめられているが、前297年にカッサンドロスが死ぬと、息子同士が後継を争ったことが原因で次男に殺害されてしまう。こうしてアレクサンドロス大王につながるマケドニア王家の血を継ぐものは、ことごとく非業の死を遂げ、途絶えてしまった。

ディアドコイ、王を称する

 ディアドコイの中で、最初に有力となったのは、アジア方面の軍隊の指揮権を握ったアンティゴノスであった。アンティゴノスは息子のデメトリオスと共に、前316~前315年に小アジア、シリア、パレスティナを支配し、バビロニア総督セレウコスを追放し、前306年にはデメトリオス率いる海軍がエジプト総督プトレマイオスの海軍をキプロスで破った。その勝利の報告を受けるアンティゴノスに対して民衆は王と叫び、彼ら親子もそれを受けて王と称するようになった。こうしてマケドニア王家に血のつながらないものが戦争の勝利という実力のみで王を称することが始まり、他の将軍たちも次々と王を称するようになった。

イプソスの戦い

 前301年のイプソスの戦いでは、小アジアのイプソス付近でアンティゴノス・デメトリオス連合軍対カサンドロス・リュシマコス・セレウコス連合軍の戦いとなって後者が勝ち、アンティゴノス・デメトリオス(親子)が敗死した。
 その後、リュシマコスが有力となったが、セレウコスとの対立が生じ敗れて死んだ。マケドニアではカサンドロスの死後、デメトリオスの子のアンティゴノス2世が前276年に王位に就き、アンティゴノス朝マケドニアを成立させた。それによってシリアにはセレウコス朝シリア、エジプトにはプトレマイオス朝エジプトがそれぞれ独立し、3国の分立が確定的となり、アレクサンドロスの帝国は再統一されることはなかった。なお、ディアドコイ世代の次の後継者たちをエピゴーノイ(エピゴーネン)といい、亜流、模倣者の意味で使われる。