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アントニヌス=ピウス

2世紀中ごろ、五賢帝の4番目の皇帝。23年近い治世は安定し、元老院とも協調した。

 ローマ帝国の全盛期、五賢帝の4番目のローマ皇帝。在位138~161年。南フランスのニーム出身の名門貴族の出で、彼自身はローマ近郊で生まれた。執政官を経験し、元老院の有力な議員であって温厚篤実で知られていた。ハドリアヌス帝の晩年に、後継者と目されていた人物が死んだため、50歳の彼にその椅子が廻ってきた。形式的にハドリアヌスの養子となった上で138年に即位した。23年の治世の間、何事も問題は起こらなかったと言われる。元老院は彼を「最良の君主(オプティムス・プリンケプス)」と呼び、死後ピウスの添え名をつけて呼ばれることとなった。
 ハドリアヌス帝と異なり、皇帝としてはイタリアを出ることはなかったので、領土拡張には積極的ではなかったと見られるが、ブリテン島ではハドリアヌスの長城の北のスコットランドに第二の防壁「アントニヌスの長城」を築いているほか、北アフリカの争乱、ユダヤ人やエジプト人の反抗などには対処した。

Episode ピウスは「添え名」

 彼は本名はアウレリウス(アリウス)=アントニヌスと言った。ピウスというのは「添え名」で“道義心に厚く孝謹である”という意味がある。彼が元老院議員だったとき、高齢の元老院議員だった義父の身体を支えるように登院したこと、ハドリアヌスの晩年に死刑を宣告されていた人々を赦免したこと、ハドリアヌスの死後、元老院の反対にもかかわらずさまざまな栄誉を亡き皇帝に贈ったこと、などがその理由とされている。<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.317>

参考 手の込んだ養子皇帝

 先帝ハドリアヌスは、136年に後継者としてイタリアのパトリキ貴族をアエリウス=カエサルと名のらせて養子とした。ところが138年にこの人物が死んでしまった。かわりにハドリアヌスが養子としたのが、南フランス出身の温厚な貴族のアウレリウス=アントニヌスであった。しかもハドリアヌスは、アントニヌスがすでに51歳になっており、男子を失っていたことから、スペイン系大貴族の孫の16歳アンニウス=ウェルスと、死んだアエリウス=カエサルの遺児11歳のルキウス=ウェルスの二人をアントニヌスの養子とするすることも決めた。このアウレリウス=アントニヌスが後のアントニヌス=ピウス帝であり、アンニウス=ウェルスがマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝であり、ルキウス=ウェルスもその共同統治者となる。このようにハドリアヌスは、手の込んだ二重の養子縁組で皇帝位の継承が確実に行われるように手を打った上で、同年7月10日に死去した。
 アウレリウス=アントニヌスが予定通り即位、その高い人格から後にアントニヌス=ピウス帝といわれるようになる。そしてすでに先帝が指名していた養子アンニウス=ウェルスの婚約を解消させ、自分の娘と婚約させた上で、18歳になった139年にカエサルを名のらせ、帝位継承を明らかにした。それが後にマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝となるので、実質的には世襲皇帝と同じであったことが判る。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術新書で再刊 p.177-184>
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