五賢帝
1世紀末から2世紀末まで、ローマ帝国が最も安定し、元老院と協調した皇帝政治が行われ、対外戦争も勝利が続き、帝国領が最大となり、ローマの全盛期が出現した。しかしその終わりごろには外敵の侵攻が顕著となり、皇帝政治の動揺、変質が始まった。
ローマ帝国のほぼ2世紀に登場した、ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人のローマ皇帝をいう。ネルヴァ帝の即位した96年から、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の退位した180年までの約100年間を、特に五賢帝時代という。それまで相次いだ皇帝位をめぐる血腥い事件もなく、政局は安定し、またローマ帝国の領土が最大となるなど、その最盛期を迎えた。一般に、この時期の帝位は、前帝の養子が元老院の承認を受けて継承された、とされている。
しかし、五賢帝時代の実際を見ていくと、次期皇帝を養子として指名することは決してスムースに行われたわけではなく、トラヤヌスの即位やハドリアヌスの即位の背景には一歩間違えば内乱になりそうな陰険な駆け引きがあった。また最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝のころになると、ゲルマン人部族のローマ帝国領への侵入は大規模になり、帝国にとって危機的な状況でもあった。五賢帝時代を単純に「最も安定し繁栄した時代」と見ることはできない。この時代に、皇帝政治の性格が、従来の元老院と協調する元首政から、新興騎士身分に支えられた皇帝専制への転換が準備されたと見ることが正しいであろう。むしろ、五賢帝時代の後、ローマ帝国が3世紀の軍人皇帝の時代にも崩壊することなくなおも存続し、3世紀末に専制君主政に転換し、その崩壊を迎えるのが4世紀末であることに驚嘆せざるを得ない。
なぜ五賢帝時代に安定と繁栄がもたらされたか ところが、次第にローマ出身の古い家系の者は減少し、それ以外の都市や属州出身者が新しい元老院議員として中央政界に参入してきた。特に属州出身の「新しいローマ人」が官僚として公職就任のシステムに組み入れられていった。彼らが新しく、五賢帝時代の皇帝政治を支える政治基盤となっていった。
しかし、五賢帝時代の実際を見ていくと、次期皇帝を養子として指名することは決してスムースに行われたわけではなく、トラヤヌスの即位やハドリアヌスの即位の背景には一歩間違えば内乱になりそうな陰険な駆け引きがあった。また最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝のころになると、ゲルマン人部族のローマ帝国領への侵入は大規模になり、帝国にとって危機的な状況でもあった。五賢帝時代を単純に「最も安定し繁栄した時代」と見ることはできない。この時代に、皇帝政治の性格が、従来の元老院と協調する元首政から、新興騎士身分に支えられた皇帝専制への転換が準備されたと見ることが正しいであろう。むしろ、五賢帝時代の後、ローマ帝国が3世紀の軍人皇帝の時代にも崩壊することなくなおも存続し、3世紀末に専制君主政に転換し、その崩壊を迎えるのが4世紀末であることに驚嘆せざるを得ない。
ギボンの五賢帝論
18世紀イギリスの歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で次のように述べている。(引用)仮にもし世界史にあって、もっとも人類が幸福であり、また繁栄した時期とはいつか、という選定を求められるならば、おそらくなんの躊躇もなく、ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位までに至るこの一時期を挙げるのではなかろうか。広大なローマ帝国の全領土が、徳と知恵とによって導かれた絶対権力の下で統治されていた。軍隊はすベて四代にわたる皇帝の、強固ではあるが平和的な手によって統制され、これら皇帝たちの人物および権威に対して、国民もまたおのずからなる敬仰の念を献げていた。その文民統治はネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、そして両アントニヌスとつづく歴代皇帝によって慎重に守られた。彼らとしても自由の世相に喜びを感じ、みずから責任ある法の施行者であることを任としていたのだ。もし当時のローマ人にして、理性的自由を楽しむ心があったならば、おそらくこれら皇帝こそは、かつての共和政時代をふたたび蘇らせたという栄誉に値いしたはずである。<エドワード・ギボン(中野好夫訳)『ローマ帝国衰亡史』1 ちくま学芸文庫 p.156>
五賢帝の概略
この五人の皇帝の即位事情と主な業績を摘記すれば、次のようになろう。- ネルウァ(在位96~98) ドミティアヌス帝の暗殺後に元老院から指名をうけ66歳で即位。前帝の強権的な手法を改め元老院と協調した。トラヤヌスを養子にする。
- トラヤヌス(在位98~117) 属州ヒスパニア出身の軍人として人望があった。最初の属州生まれの皇帝。元老院と協調しながら騎士身分も重用。ダキアを征服して属州とし、パルティアとも戦い勝利。ローマ帝国の領土が最大となる。
- ハドリアヌス(在位117~138) 属州ヒスパニア出身の軍人で戦功が多くトラヤヌス急死の直前に養子に指名されたという。任期中ほぼパルティア、ゲルマン人との戦いに専念。ブリテン島に長城を築く。都市ローマの修復など評価は高いが、当時は暴君として恐れられた面もあった。
- アントニヌス=ピウス(在位138~161) 南フランス出身の元老院議員。50歳を過ぎてハドリアヌスの養子となる。
- マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 軍人、政治家であるとともにストア派の哲学を学び自ら『自省録』を著す。哲学者としてもすぐれていたが、パルティアとの戦争に苦しみ、さらにゲルマン人の大規模な侵入が始まり苦戦が続く中、ウィンドボナ付近で病没した。実子のコンモドゥスが帝位を継いだが悪政を行い、殺害されるなど混乱した。
参考 皇帝政治の政治基盤
ローマ帝国の最高身分とされた元老院議員身分は、五賢帝時代には、古来の血統貴族で宗教上の職務を担うパトリキ(本来の貴族)、執政官を過去に出したことのある伝統のある家系(ノビレス=新貴族)、父親の代まで騎士身分(エクイテス)であったがはじめて元老院議員となった新興家族などの家柄の差異があった。1世紀後半のウェスパシアヌス帝時代から、元老院議員が公職について政治に参加する歳の公職就任順序が整備され始め、ハドリアヌス帝の時代にほぼ完成し、その就任順序には家柄の差異が組み込まれた。家柄ごとの公職就任順序がほぼ年齢どおりにルール化され、それはあたかも現代の官僚制度の観があり(本質的には異なるが)、このような元老院議員が官僚として皇帝政治を支えていた。なぜ五賢帝時代に安定と繁栄がもたらされたか ところが、次第にローマ出身の古い家系の者は減少し、それ以外の都市や属州出身者が新しい元老院議員として中央政界に参入してきた。特に属州出身の「新しいローマ人」が官僚として公職就任のシステムに組み入れられていった。彼らが新しく、五賢帝時代の皇帝政治を支える政治基盤となっていった。
(引用)ここに私たちは、五賢帝時代になぜ帝国の安定と繁栄が実現したのかという問いに対して、一つの解答を見出すことができる。紀元2世紀前半には帝国統治のシステムが安定するとともに公職就任順序が整備固定化されて、身分と階層の構造を持つ伝統的なローマ社会が供給する人材を、帝国統治に安定的に組み入れることができるようになった。また、それと同時に、保守的な価値観念に対立しない程度に温和な形で、新しい活力ある人材を登用することもできた。伝統と現実との双方にうまく適応したシステムが出来上がり、機能していたのである。このことが、諸皇帝が政治支配層を掌握し得たこととならんで、五賢帝時代の政治的安定と繁栄を支えていたのである。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術新書で再刊 p.222-224>
参考 養子皇帝制への疑問
(引用)さて、五賢帝時代の特徴として何よりも強調されてきたのは、有徳の皇帝が連続して統治し、帝国が安定したということだが、さらにこのことを説明するために、「養子皇帝制」なることがしばしば語られる。つまり、この時代は、元老院の有能で徳望のある人物が選ばれて養子となり皇帝位を継ぐ慣行があり、この麗しい「制度」のために、皇帝位を争う争乱が起こらず、また世襲による皇帝政治の悪化も阻止されたというわけである。……
この「養子皇帝制」の最もはっきりした例として注目されるのが、ネルウァのトラヤヌス養子であった。というのも、トラヤヌスからマルクスまでの諸皇帝の間には何らかの親族関係によるつながりがあった。例えばトラヤヌスとハドリアヌスの父とは従兄弟同士であった。しかしネルウァとトラヤヌスの間には何の親族関係もなく、しかも家系の古いイタリア貴族のネルウァが新興のスペイン出身者トラヤヌスを養子にしたのであるから、「養子皇帝制」の実に良い実践例とみることができる。
しかし、……どうも「養子皇帝制」などというもには実体がなかったように感じられる。ネルウァのトラヤヌス養子決定はあくまでも現実の力関係や政治行動によって行われた。そして、養子縁組は実際の親子関係が存在しない場合に、皇帝位世襲の原理を見出すための犠牲的手段として用いられたに過ぎなかったのではないか。……<南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998初刊 2014講談社学術文庫再刊 p.82-83>