ウァレリアヌス
3世紀、軍人皇帝時代のローマ皇帝で、ササン朝ペルシアとの戦いに敗れ捕虜となった。軍制改革に当たり、機動軍を創設した。
ローマ帝国の軍人皇帝時代のローマ皇帝(在位253~260年)。ローマの名門出で元老院議員であるが軍人として軍隊によって皇帝に推戴された。260年、西アジアでローマの勢力圏であったアルメニアに侵入してきたササン朝ペルシアのシャープール1世に対する遠征軍を起こし、エデッサの戦いで敗れて捕虜となった。ローマ皇帝の身でありながら捕虜となったのは彼が最初である。また捕虜となった後の境遇は判っていない。ウァレリアヌスの敗北以来、東からのササン朝に加えて、西北からのゲルマン人の侵攻が激しくなり、国内でも軍隊の反乱が相次ぎ、いわゆる三十僭帝といわれる混乱期に入った。
ウァレリアヌス帝と言えば260年にササン朝シャープール1世に敗れて捕虜となった皇帝としてしか出てこないが、実はこの皇帝は初代アウグストゥスと並ぶ軍制改革を行った皇帝として重要である。当時ローマ帝国はゴート人、ササン朝が東西から帝国領に侵攻、その対策が必至だった。ウァレリアヌス帝は即位すると直ちに息子のガリエヌスを同僚皇帝とし、帝国西部の統治を任せ、自身は東部のササン朝ペルシアに当たることにした。この東西分治は一人の皇帝の防衛担当範囲を縮小すると同時に、皇帝不在の属州で総督が帝位の簒奪者となる事態を防ぐことを意図していた。さらにガリエヌス帝は帝国西部をライン川とドナウ川の日本面に分け、息子の称ウァレリアヌスとサロニヌスを同僚皇帝として残す措置をとった。こうして複数の皇帝が帝国を文治する統治法は後にディオクレティアヌス帝が四帝分治というかたちで採用し、軍人皇帝時代を終結に導くことになる。
ウァレリアヌス帝はこのような帝国分治方式とともに、それまで属州には常設の軍団と補助軍が置かれるだけであったのを改め、新たに機動軍を創設して、皇帝の遠征などに際して、近衛軍、軍団から選抜された兵士として選抜、プロテクトルと命名した。守護者を意味するプロテクトルは、皇帝に直属する機動軍として編成され、帝国各地に設けられて皇帝の遠征を支えた。また子のガリエヌス帝は、ローマで途絶えていた騎兵を復活させ、機動軍に加えるという改革も行っている。
この皇帝直属の機動軍の存在が大きくなって行き、ウァレリアヌス帝が捕虜となって以降、皇帝の座は機動軍の動向によって左右されるようになり、文字通りの軍人皇帝時代へと展開していく。<井上文則『井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書』 p.119-128>
ウァレリアヌス帝の軍制改革
ウァレリアヌスはラエティア(現スイス、ドイツ、オーストリア、ティロルにまたがる属州)方面で軍隊を率いる軍人であったが、下モエシア総督アエメリアヌスが皇帝に推戴されてガルス帝を破り皇帝となった後、ガルスの救援要請を受けて立ち、そのガルスの死を知って皇帝を称し、イタリアに攻め入ってアエメリアヌス帝を倒した。ウァレリアヌス帝と言えば260年にササン朝シャープール1世に敗れて捕虜となった皇帝としてしか出てこないが、実はこの皇帝は初代アウグストゥスと並ぶ軍制改革を行った皇帝として重要である。当時ローマ帝国はゴート人、ササン朝が東西から帝国領に侵攻、その対策が必至だった。ウァレリアヌス帝は即位すると直ちに息子のガリエヌスを同僚皇帝とし、帝国西部の統治を任せ、自身は東部のササン朝ペルシアに当たることにした。この東西分治は一人の皇帝の防衛担当範囲を縮小すると同時に、皇帝不在の属州で総督が帝位の簒奪者となる事態を防ぐことを意図していた。さらにガリエヌス帝は帝国西部をライン川とドナウ川の日本面に分け、息子の称ウァレリアヌスとサロニヌスを同僚皇帝として残す措置をとった。こうして複数の皇帝が帝国を文治する統治法は後にディオクレティアヌス帝が四帝分治というかたちで採用し、軍人皇帝時代を終結に導くことになる。
ウァレリアヌス帝はこのような帝国分治方式とともに、それまで属州には常設の軍団と補助軍が置かれるだけであったのを改め、新たに機動軍を創設して、皇帝の遠征などに際して、近衛軍、軍団から選抜された兵士として選抜、プロテクトルと命名した。守護者を意味するプロテクトルは、皇帝に直属する機動軍として編成され、帝国各地に設けられて皇帝の遠征を支えた。また子のガリエヌス帝は、ローマで途絶えていた騎兵を復活させ、機動軍に加えるという改革も行っている。
この皇帝直属の機動軍の存在が大きくなって行き、ウァレリアヌス帝が捕虜となって以降、皇帝の座は機動軍の動向によって左右されるようになり、文字通りの軍人皇帝時代へと展開していく。<井上文則『井上文則『軍と兵士のローマ帝国』2023 岩波新書』 p.119-128>