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公共浴場

古代ローマの年に建設された大衆娯楽施設。カラカラ浴場が特に有名。

 ローマ市内には、アグリッパ浴場、ネロ浴場、ティトウス浴場、トラヤヌス浴場、コンモドゥス浴場など、多くの浴場があった。歴代の皇帝や有力者が、劇場や円形競技場などとと同じように、公共施設として建設し、市民に提供した。単なる公共浴場ではなく、社交場であり、スポーツジムでもある総合娯楽場として市民に利用された。その中で最も規模の大きかったのがカラカラ帝によって建設されたものであり、現在でも遺跡としてその規模を知ることが出来る。 → ローマ文化

カラカラ浴場

 カラカラ帝の時、216年に完成した。正式名称はアントニヌス浴場だが一般にはカラカラ浴場の名で親しまれている。場所はアッピア街道を南に500mほどたどった右側、貴族の別荘が点在していた。堅牢な外壁をめぐらせた幅337m、奥行き328m、総面積約11万平方メートルという広大な敷地に人工基盤が造られ、湯を沸かすための巨大な炉や貯湯タンク、各浴室に熱気を送るトンネルや給湯管が設置されていた。施設の中には浴場施設以外にも遊歩道や運動場、それに図書館をもつ庭園などがあった。浴場施設は面積にして2万5千平方メートルにおよぶ巨大な建物で、プールのように大きな浴室、中央ホール、微温浴室、それに熱浴室が中央軸線上にならび、その両側に脱衣場、各種の浴室やマッサージ室、室内競技場などが左右対称に配置されていた。一度の1000人以上の市民が利用できるローマ最大の公共浴場は、きわめて安い入浴料で利用できる総合娯楽センターだった。この巨大施設に水を供給するための水道も新たに造られた。<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.360>

公共浴場の始まり

 ローマで公共の大浴場が建設されるようになったのは、ようやく帝政期に入ってからのことであった。セネカの伝えるところでは、共和政期の富裕層は自宅に浴室を備えていたとはいえ、毎日入浴したわけではなく、週一回開かれる大市の日に限られていたという。それは給水量が十分ではなかったからで、ローマの水道が複数引かれてます小規模な私営の浴場が開業し、やがて公共浴場が現れて都市生活の一部として定着した。
(引用)最初の公共浴場は、アウグストゥス帝の右腕アグリッパによって誕生した。彼が二本の水道を新たに敷設した結果、首都に水がふんだんに供給されたからである。かの「トレヴィの泉」は18世紀の造営物だが、アグリッパが引いたウィルゴ(乙女)水道を今でも利用している。この泉の後ろに立つ凱旋門左上のレリーフには、彼が水道建設を指揮する模様が描かれている。アグリッパ以後も、ネロ帝やトラヤヌス帝が豪華な大浴場を建設し、こうして浴場はローマ人にとって単なるアメニティ施設どころか、レジャー施設に変貌していった。……<新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』2000 講談社選書メチエ p.184>

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書籍案内

青柳正規
『皇帝たちの都ローマ』
1992 中公新書

新保良明
『ローマ帝国愚帝列伝』
2000 講談社選書メティエ

青柳正規・芳賀京子
『テルマエ お風呂でつながる古代ローマと日本』
2023 青幻社