サライ
キプチャク=ハン国の都。その実態は移動式の天幕都市であった。
1241年のワールシュタットの戦いの勝利の翌年、オゴタイ=ハンの死去により反転したバトゥは、モンゴル高原に戻らず、1243年、南ロシアのヴォルガ川下流のサライを新たな都としてキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を建国した。ただし、サライは一定の都城ではなく、その実態は移動式の天幕(オルダ)で、季節ごとに一定範囲を移動した。天幕は豪華で、内装が金であったのでキプチャク=ハン国のことを漢文では金帳汗国、ロシア語では「ゾロタヤ=オルダ(金のテント)と称した。その後、バトゥの弟のベルケ=ハンの時に、ヴォルガ上流の新サライに移ったので、それ以前を旧サライともいう。
しかし「実はバトゥのサライとベルケのサライは同じ場所で、新サライは(ウズベク=ハンの時)1330年まで建設されなかったようである。新サライの遺跡の発掘は、そこが城壁のない広大なメトロポリスであったことを明らかにした。14世紀末のティムールによる略奪ののち見捨てられた遺跡には、かずかずの繁栄の証拠が埋もれていたのである。<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 杉山正明・大島淳子訳 p.151>
しかし「実はバトゥのサライとベルケのサライは同じ場所で、新サライは(ウズベク=ハンの時)1330年まで建設されなかったようである。新サライの遺跡の発掘は、そこが城壁のない広大なメトロポリスであったことを明らかにした。14世紀末のティムールによる略奪ののち見捨てられた遺跡には、かずかずの繁栄の証拠が埋もれていたのである。<D.ゴードン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 杉山正明・大島淳子訳 p.151>