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キプチャク=ハン国/ジョチ=ウルス

1243年、モンゴル帝国のジョチの領地から始まったハン国(ウルス)で、その子のバトゥの西方遠征で拡大され、南ロシア一帯を支配した。14世紀前半、全盛期となったが同時にイスラーム化が進み、領域内のトルコ系民族が次々と自立。ロシアも1480年に「タタールのくびき」から脱し、キプチャク=ハン国は1502年に滅亡した。

 モンゴル帝国のハン国の一つ。チンギス=ハンの長子ジョチ(ジュチ)に与えられたアルタイ山脈地帯の領土(ジョチ=ウルス)が始まり。ジョチの子のバトゥのロシア・東欧遠征によってキエフ公国を滅ぼした後、南ロシアから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配し、1243年、ヴォルガ川下流のサライを都として成立。キプチャクとはモンゴルの侵入以前からカスピ海北岸から南ロシア、カザフスタンの草原地帯で遊牧生活を送っていたトルコ系の民族名で、モンゴル人がそれに同化したために、一般にこの国をキプチャク=ハン国という。金張汗国とも表記する。 → 三ハン国の形成

ジョチ=ウルスの成立

 バトゥの率いるモンゴル軍はオゴタイ=ハンの死去の知らせを受け、1242年に東ヨーロッパから引き揚げた。しかしバトゥはモンゴルに戻らず、ヴォルガ川下流の草原地帯に腰を据えて動かなかった。彼は父ジョチから引き継いだジョチ=ウルスをこの地に維持し、発展させる道を選んだ。東側にジョチの長男オルダが治めるオルダ=ウルス、西側の広大なキプチャク草原にバトゥ自身の治めるバトゥ・ウルス、その中間にはジョチのその他の子に与えるという広大なジョチ=ウルスをつくりあげた。ロシアとカフカスの北嶺一帯は属領とした。

キプチャク=ハン国は俗称。ジョチ=ウルスが正しい。

(引用)このジョチ=ウルスはモンゴル国家とはいうものの、その実態はトルコ系のキプチャク族が大半を占めていた。ジョチ=ウルスのモンゴル人は言葉も容貌も急速にトルコ化し、さらにバトゥの弟ベルケの時からイスラーム化が始まった。ジョチ=ウルスを「キプチャク=ハン国」と俗称するのは、こうした現実を背景としている。しかし、もともと人種・民族をこえた集団こそ「モンゴル」の本質であった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.88>
ジョチ=ウルスの成立によって、肥沃な草原地帯の牧民世界と痩せた森林地帯の零細農民という二つの世界が統合された。
(引用)その多重構造の連合体の頂点にいたのが、ヴォルガ河畔を南北に「オルド」を季節移動させるバトゥ家の当主であった。その巨大な天幕をロシア語で”ゾロタヤ・オルダ”すなわち”黄金のオルド(天幕)”と言った。黄金色に内装されていたからである。英語でゴールデン・ホルド、日本語で「金帳」という。金帳汗国という通称は、これに因む。<杉山正明『同上書』p.89>

キプチャク=ハン国のロシア支配

 広大な南ロシアの草原が領土であり、支配者モンゴル人は少数で、多数の住民はロシア人、トルコ系遊牧民のキプチャク人であった。ロシア人はこのモンゴル人による支配を「タタールのくびき」として嘆いた。しかし、その実態は、ノヴゴロド公アレクサンドル=ネフスキーがキプチャク=ハン国に臣従して貢納したところから始まり、キプチャク=ハン国は納税のみを義務としてロシア諸侯の自治を認める間接統治であった。徴税も当初はモンゴル人の徴税官が当たったが、次第にモスクワ公国が代行するようになり、モンゴル人への納税負担に反発した農民はモスクワ公国によって弾圧された。

マムルーク朝との同盟

 キプチャク=ハン国は、南方のイル=ハン国(フレグ=ウルス)とは、アゼルバイジャンとカフカス地方の領有をめぐって対立した。そのため、イル=ハン国と戦争状態の続いていたエジプト・シリアを支配するマムルーク朝とは友好関係を結び、いわば「イスラーム=キプチャク連合」が成立した。背景には、マムルーク朝のマムルークの多くは、ジェノヴァの商人などの手でエジプトに売られてきたキプチャク草原のトルコ人遊牧民が多かったので、親近感があったのである。また、西方のビザンツ帝国(1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還した)ともイル=ハン国との対抗上、友好関係を保った。

イスラーム化

 キプチャク=ハン国は14世紀前半のウズベク=ハンの時に全盛期となるとともに公式にイスラーム化し、都をボルガ上流の新サライに移した。しかし、1359年にバトゥの血統が途絶え、14世紀後半にティムール朝の進出に対しトクタミシュが抵抗したが、その後国家的統合は失われていった。

キプチャク=ハン国の衰退

 キプチャク=ハン国は1362年には西方のリトアニア大公国に敗れてウクライナを奪われ、さらに内紛もあって、東方はティムール帝国の侵攻を受け、14世紀の末ごろから次第に衰退していった。
 15世紀にはヴォルガ流域にカザン=ハン国アストラハン=ハン国、黒海北岸にクリム=ハン国、西シベリアにシビル=ハン国などの小ハン国が分立した。これらの諸国は君主にはモンゴル系を戴いていたが、実質的にはタタール人などトルコ系民族であり、その他のウズベク人カザフ人も自立した。

ロシアの自立

 ロシアは1237年以来、キプチャク=ハン国の支配を受、タタールのくびきといわれていたが、1480年モスクワ大公国イヴァン3世が独立を達成し、大国化への道を歩み始めた。
 こうして1502年にはキプチャク=ハン国は滅亡した。その領域では、モスクワ大国とクリム=ハン国が有力となっていく。
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杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』上
講談社現代新書