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三別抄の乱

1270年、朝鮮の高麗における元の支配に対して起こった抵抗。三別抄とは武臣政権の軍事力であったが、政権ががモンゴルに服属したことに反発して反乱を起こし、民衆の支持のもと珍島、済州島を拠点にモンゴル軍と戦ったが敗れ、73年に鎮圧された。その翌年、モンゴル軍は高麗軍を動員して日本遠征に向かった。

 さんべつしょうのらん。中国を征服した元のフビライ=ハン高麗を実質的な属国として支配した。モンゴルの高麗支配に対して1270年、反モンゴルの抵抗運動が起こった。それが三別抄の乱(~73年)である。別抄とは特別部隊という意味で、高麗の武臣政権である崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながら脱出してきたものを集めて編成した神義軍をあわせて三別抄とよんだ。三別抄は高麗の武臣政権の軍事力の核となるもので、モンゴルとの戦いでも前衛として戦った。
 1270年、高麗王朝がモンゴルとの講和に踏み切ると、それに不満な三別抄は、南方海上の珍島に拠って城を築き、民衆の支持も受けて抵抗を続けた。モンゴルは高麗政府軍と連合して1年にわたる猛攻により、珍島を陥落させたが、三別抄の残党はなおも南の済州島に移ってさらに抵抗した。三別抄は日本にも救援を要請したが、鎌倉幕府は事情を理解できず、協力することはなかった。ようやく鎮圧されたのは1273年、つまり最初の元の日本侵攻(元寇)の前年であった。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.106>

三別抄、日本に援軍を要請

 文永8(1271)年9月、鎌倉幕府に「高麗国」から「牒状」(国書)がもたらされた。それには、高麗の窮状を訴え、日本に援軍と兵糧を要請する内容が記されていたらしい。幕府はその扱いに苦慮し、朝廷に送った。京都の後嵯峨上皇は、「高麗牒状」の内容を確認するために儒者達を集め評定を開いた。その時の討議資料と思われる文書「高麗牒状不審条々」が東大史料編纂所に残されている。それによると、それ以前の文永5(1268)年に初めてもたらされた高麗国王元宋の国書と比較検討がなされた結果、蒙古の風俗を蔑んだ表現があることや蒙古の年号を用いていないことなどから、蒙古の支配下にある高麗の国書としては疑わしいという結論に達した。実はこの牒状は、珍島を拠点とした三別抄が、元に屈した江華島の政府を否定し、自らを正当な高麗王朝と名乗って、日本に支援を求めてきたものであった。「モンゴルの巨大な圧迫に直面し、それへの抵抗と反撃を共通の課題としていた両民族が、国のちがいを超えて共同する可能性」があったことを示しているが、朝廷の儒学者は十分その意味を理解することができず、牒状は黙殺された。
 三別抄の乱は1273年、モンゴル軍・漢軍(旧金朝の兵)・高麗軍の併せて1万の総攻撃を受け、済州島が陥落し、あしかけ4年にわたった反乱は収束する。そしてその翌年、元は同じく漢軍・高麗軍を動員して、最初の日本遠征を実行した。「三別抄の反乱が、モンゴルの日本征討を大幅に遅らせ、また征討軍を疲労させて日本に向かう勢いを弱めたことは間違いない。」<『北条時宗と蒙古襲来』2001 村井章介 NHKブックス p.69,97>
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岡百合子
『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』
平凡社ライブラリー

村井章介
『北条時政と蒙古襲来』
2001 NHKブックス