高麗
こうらい。朝鮮の王朝。918年、王建が高句麗の後継と称して建国し、新羅末期の分裂状態を統一した。12世紀末に崔氏が政権を握り、13世紀には元に服属し、元の日本遠征に動員された。14世紀に倭寇の侵攻もあって衰退した。両班が支配階級として形成され、儒教・仏教を取り入れると共に金属活字や青磁など高度な文化を有していた。
王建による朝鮮統一
新羅に代わって成立した朝鮮の王朝。9世紀に新羅の統治は衰え、各地に農民反乱が起こった。その中から、新羅の北部に自立した弓裔の部下であった王建は、918年に高句麗の再興という意識から高麗という国号を立て、開城を都とした。すでにそのころ、旧百済の地にはやはり農民反乱から自立した後百済があったので、朝鮮は新羅、後百済、高麗の三国が争う「後三国時代」となった。その中で最も安定した王建の高麗は、935年には新羅王が降伏を申し出たのでそれを受け入れ(新羅の滅亡)、さらにを936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一することに成功した。王建は新羅王が降伏したときに多数の新羅貴族を受け入れて高麗の官僚として登用、さらにすでに契丹に滅ぼされていた渤海の遺民も受け入れてその支配に組み入れたので、新羅・高句麗・渤海を継承する国家として位置づけられる。しかし最後まで敵対した後百済の遺民に対しては冷遇し、差別することを後継者にも指示した。これが後の韓国にも残る全羅南道出身者に対する差別の一因ともいわれている。
このように王建(太祖)は旧新羅や渤海の国家機構と人材を継承して統治機構の構築を行い、中央官制と地方制度の整備に着手し、集権体制の基礎をつくり、中国の五代の各王朝から冊封を受けて国際関係の安定もはかった。937年(承平 年)には日本の太宰府を通じて通交を求めたが、朝廷はそれを拒否した。高麗と日本の正式な国交は開かれなかったが、11世紀になると、日本の商人との私的な商業活動が行われるようになった。
高麗の体制 10~11世紀
高麗の国家機構は宋にならい、中央に三省六官制、地方に郡県制をしいた。958年にには科挙制度を採り入れて官僚制を整備する中で、文武の特権階級が形成され、文班と武班の両班といわれる貴族階級が形成された。この両班制は次の李氏の支配する朝鮮王朝にも継承される。高麗は中国の五代~宋に朝貢しながら、契丹(遼)から国土を守って独立を維持しようとした。契丹はたびたび南下し、開城に迫ったが、高麗軍は巧みに反撃し、独立を維持し、11世紀には安定した時期を迎えた。
両班と儒教 この間、新羅時代から国家的な保護を受けていた仏教とともに、儒教が朝鮮社会に根付き、朝鮮の儒教が独自の発展を遂げていった。儒教は両班の支配を支える理念として、共に長くその社会を規制し、現代に至るまで、朝鮮社会に強い影響を与えている。
武人政権の時代 12世紀
12世紀には北方にツングース系の女真が台頭し、高麗の北辺を脅かすようになった。女真は1115年に金を建国し、1125年に契丹を破り、さらに翌年、宋の都開封を陥れた。高麗は金の冊封を受けて服属することによって存続を図ったが、厳しい国際情勢の中で両班の武班が発言力を強め、国内政治の混乱もあって、いわゆる武臣(人)政権が成立した。その最初は、1170年、武臣である鄭仲夫が軍事クーデターを起こし国王毅宗を暗殺した事件であった。その後、高麗は約1世紀にわたって武臣が権力を握る時代が続いたが、その中で12世紀末の崔忠献から4代にわたって世襲された崔氏政権が最も長く続いた。同じころ、日本においても源頼朝が日本最初の武家政権である鎌倉幕府を建てている。モンゴルの支配 13世紀
13世紀にはいるとモンゴル帝国の膨張が著しく、高麗もその侵攻を受けるようになった。1231年には猛烈なモンゴル軍の侵攻を受けて崔氏政権は首都開城を明け渡し、江華島に逃れた。フビライは高麗に対する懐柔策をとり、高麗は都を開城に戻してその従属国となることに合意した。1270年には、モンゴルに対する武力抵抗を主張する武人らが三別抄の乱を起こし、珍島や済州島などで抵抗を続けたが、1273年にすべて鎮圧され、高麗はモンゴルの完全な支配を受けることとなった。フビライは日本遠征(元寇)の兵力を高麗に依存したため、高麗にはその負担が重くのしかかった。1281年、2度目の日本遠征が失敗に終わり、元の日本遠征は中止となったが、その後も高麗は国力の回復に苦心せざるを得なかった。 → モンゴルの高麗支配
高麗の滅亡 14世紀
14世紀に入ると、東アジア情勢が大きく変動し、元の中国支配に対する農民反乱である紅巾の乱が起こり、その混乱の中から1368年に朱元璋が明を建国した。日本においても鎌倉幕府が1333年に滅亡して、南北朝の動乱という混乱期に入ったことを背景に、1350年から高麗の海岸部から内陸にまで、倭寇といわれる海賊行為が頻発するようになり、高麗もその被害を受けたがそれを撃退する力が無くなっていた。国内が元への忠誠を続けようとする親元派と、明に協力しようとする親明派に分裂したためでもあった。そのような中で、1392年に倭寇撃退に功績のあった李成桂が高麗を倒し朝鮮を建国することになる。日本では1368年に足利義満が将軍となり、1392年に南北朝の合一に至っている。高麗の文化
高麗は、中国から儒教、仏教を学び、特に仏教では高麗版大蔵経が刊行されるなど国家的な保護が行われた。また金属活字の発明、高麗青磁の発達など独自の文化を生み出した。現在、朝鮮のことを英語で Korea というのは、高麗(コリョ)から来ている。高麗は世界に知られた国家だった。モンゴル帝国の高麗支配
13世紀の崔氏政権下の高麗に、モンゴル軍が侵攻、1260年には属国とされた。モンゴル帝国は日本遠征にあたって高麗人を動員したため、高麗は衰退に向かった。
元への抵抗と服従
モンゴル帝国は高麗に対して、1231年から1254年まで、6回にわたり遠征軍を送って征服しようとした。高麗では武人の崔氏政権が都を開城から江華島に移し抵抗を続けた。しかし、高麗で崔氏政権が倒れ、和平派が台頭、1260年ハン位についたフビライ=ハンも武力での制圧策を捨て、高麗国王として封じた。高麗は独立の体面は維持したがその属国となり、毎年の朝貢を続けることとなった。また、講和に反対した軍事勢力が1270年に三別抄の乱を起こし、珍島や済州島で73年まで抵抗を続けた。1274年に元の日本遠征(元寇)がはじまると、その兵員を出すことを強いられたため大きな負担となった。元の日本遠征は、鎌倉幕府の御家人の活躍と、第2回遠征おける暴風雨のために失敗し、高麗も大きな犠牲を出して終了した。
元の支配下の高麗において、高麗版大蔵経の刊行や、金属活字の発明、高麗青磁の発達などの文化の成長があったことが注目できる。
Episode 骸骨、野を覆う
モンゴルの高麗遠征は熾烈を極めた。特に1254年の第6回の遠征では、「蒙古兵に虜えられし男女無慮二〇万六千八百余人、殺戮されし者は計えるにたうべからず。経る所の州郡みな灰燼となる。」また、「兵荒以来、骸骨野をおおう」(『高麗史』)といわれた。なお、このとき高麗の朝廷が江華島に逃れ、モンゴルの攻撃に耐えたことは、江華島が朝鮮にとって大切な場所であることが判る。 → 1875年 江華島事件参考 井上靖『風濤』
1967年に発表された井上靖の歴史小説『風濤』は、元のチンギスハンに服属させられた高麗王元宗の苦悩を描いている。小説という形態をとっているが、『高麗史』からモンゴルや高麗の国書を引用し、史実を踏まえて高麗の苦悩の歴史を描いている。また、蒙古襲来を日本の側から見るだけではなく、遠征軍にかり出された高麗の側から見ることで、偏狭な民族史観に陥らないためにも一読をお勧めする。日本遠征での元の過酷な要求
(引用) 1274年正月、大小戦艦900隻の建造命令が高麗にとどいた。その内訳は、千料舟(千石船)300隻、バトル軽疾舟(快速船)300隻、汲水船300隻であった。造船の総監督には洪茶丘が就任。冷酷無情、どんな高麗の苦悩にも顔色一つ変えず命令の実行を督促した。
高麗は、工匠・人夫3万500人を徴募、辺山と天冠山に造船所をおいた。なによりも、工匠・人夫・軍人・屯田軍への食料の補給に困った。
元は高麗に対し、兵士8000、梢工(かじ取り)・水手(水夫)1万5000の提供を要求したが、交渉の結果、兵士6000、梢工・水手6700をだすことになった。
このころ元は高麗駐留の蛮子軍(宋の降軍)のための高麗の婦女の提供を求めた。高麗政府も拒否できず、結婚都監という臨時の役所をつくり、市井の独身女性、三別抄の妻、僧侶の娘などを駆り集めて提供した。やがて蛮子軍がこれらの女性をつれて北に引き上げたときは、その泣き声は天を震わし皆いたみ悲しんだという。
元は2万の兵士を動員、そのうち5000はこれまで高麗に駐留し、三別抄の討伐に使われた屯田軍であり、残り1万5000は、あらたに発遣された蒙古人・女真人・中国人からなる部隊であった。ほかに梢工・水手が1万数千人動員されたと思われる。<旗田巍『元寇』中公新書 P.108-110>