キュリロス
9世紀、ギリシア正教会の宣教師でスラヴ人に布教し、キリル文字を考案した人物。
キュリロスはギリシア正教会の宣教師として活躍したギリシア人で「スラヴの使徒」と言われている。9世紀の前半に兄のメトディオスとともにビザンツ帝国から派遣されてモラヴィア王国(現在のチェコの東部)で布教に当たった。布教にあたって、スラヴ人が文字をもっていなかったところから、ギリシア語をもとにスラヴ語を表記するための文字を考案したという。それが現在のロシア文字のもとになった文字で、キュリロスの名からキリル文字と言われているが、最近は彼が作ったのはキリル文字そのものではなく、そのもとになったグラゴール文字とされている。スラヴ最古の文字グラゴール文字は、字体が複雑であったためやがて使われなくなり、現在のロシアやブルガリアやセルビアで使われているキリル文字は、キュリロスの弟子たちがギリシア文字に基づいて作ったと考えられている。
・グラゴール文字(後のキリル文字)の考案 キュリロスは本名をコンスタンティノスといい、テッサロニケ生まれのギリシア人で、高名な学者として知られていた。863年頃頃、モラヴィア王国の王の要請を受けたビザンツ皇帝ミカエル3世の名により、兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教に旅立った。彼らが選ばれた理由は彼らの出身地テッサロニケ周辺にスラヴ系の人々が多く住んでおり、二人ともスラヴ語に堪能だったからであった。モラヴィア行きを命じられたコンスタンティノスはただちにスラヴ人の言葉を書き表す文字を考案した。言い伝えでは「神の啓示によってたちまち文字をつくりあげた」とされている。これはスラヴ系最初の文章語と文字の創作であった(現在では彼が造った文字はグラゴール文字で、キリル文字は後にそれを簡略化してつくられた、とされている)。
・モラヴィア王国での布教 モラヴィア王国では国王ロスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行い、弟子を養成し、教会組織の基礎固めをして867年に任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなったが、二人の運命は一転する。本国で政変が起こり皇帝が暗殺されたのである。政争に巻き込まれることを避けた二人はローマに向かい、教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けた。コンスタンティノスはローマで修道士となり、キュリロスの名を名乗ったが、間もなくその地で病没した。
・ラテン語典礼派とスラヴ語典礼派の対立 兄のメトディオスは大司教に任命されてブルガリアの勢力圏の現在のセルビアに派遣されることになった。ところが、東フランク王国の聖職者がそれに反対した。その理由は、典礼はあくまでラテン語で行うべきで、スラヴ語の典礼は認められないという彼らの訴えでメトディオスはとらえられてしまった。釈放された後は再びモラヴィアに戻り全盛期の王スヴァトプルクのもとでスラヴ語による典礼を認めさせようとしたが、その地でもラテン語典礼に固執する聖職者と対立、結局ローマに送り返された。880年、ローマ教皇は「ラテン語派」と「スラヴ語派」の対立を裁定し、モラヴィアの教会では典礼の際はまずラテン語で読み上げ、その後にスラヴ語を読み上げるとした。一応の妥協が成立した後、885年にメトディオスは波乱の生涯を終えた。しかしその死後、モラヴィアではスラヴ語の典礼は禁止され、メトディオスの努力は酬われなかった。しかも906年頃、モラヴィア王国そのものがマジャール人の攻撃によって滅亡し、その地にスラヴ語で典礼を行う教会組織を作るというキュリロス兄弟の夢は潰えた。
・ブルガリアでスラヴ語典礼が生き返る ところが、スラヴ語典礼は意外なところに生き残った。モラヴィアを追放されたスラヴ語典礼派はバルカンに南下してブルガリアのボリス1世に保護を求めると、ボリス1世は、ビザンツ帝国と対抗する意図もあって彼らを保護、その後のブルガリアで古代スラヴ語によるキリスト教文化が開化することとなった。こうしてブルガリアで保護されたことによって(モラヴィアでは定着しなかったが)ギリシア正教の信仰とキリル文字がスラヴ系の人々に広がっていくことになった。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26>
キュリロス兄弟のスラヴ人への布教
キュリロス兄弟の活動は当時の東欧の状況を知る上で重要なので、その経緯を見ておこう。・グラゴール文字(後のキリル文字)の考案 キュリロスは本名をコンスタンティノスといい、テッサロニケ生まれのギリシア人で、高名な学者として知られていた。863年頃頃、モラヴィア王国の王の要請を受けたビザンツ皇帝ミカエル3世の名により、兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教に旅立った。彼らが選ばれた理由は彼らの出身地テッサロニケ周辺にスラヴ系の人々が多く住んでおり、二人ともスラヴ語に堪能だったからであった。モラヴィア行きを命じられたコンスタンティノスはただちにスラヴ人の言葉を書き表す文字を考案した。言い伝えでは「神の啓示によってたちまち文字をつくりあげた」とされている。これはスラヴ系最初の文章語と文字の創作であった(現在では彼が造った文字はグラゴール文字で、キリル文字は後にそれを簡略化してつくられた、とされている)。
・モラヴィア王国での布教 モラヴィア王国では国王ロスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行い、弟子を養成し、教会組織の基礎固めをして867年に任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなったが、二人の運命は一転する。本国で政変が起こり皇帝が暗殺されたのである。政争に巻き込まれることを避けた二人はローマに向かい、教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けた。コンスタンティノスはローマで修道士となり、キュリロスの名を名乗ったが、間もなくその地で病没した。
・ラテン語典礼派とスラヴ語典礼派の対立 兄のメトディオスは大司教に任命されてブルガリアの勢力圏の現在のセルビアに派遣されることになった。ところが、東フランク王国の聖職者がそれに反対した。その理由は、典礼はあくまでラテン語で行うべきで、スラヴ語の典礼は認められないという彼らの訴えでメトディオスはとらえられてしまった。釈放された後は再びモラヴィアに戻り全盛期の王スヴァトプルクのもとでスラヴ語による典礼を認めさせようとしたが、その地でもラテン語典礼に固執する聖職者と対立、結局ローマに送り返された。880年、ローマ教皇は「ラテン語派」と「スラヴ語派」の対立を裁定し、モラヴィアの教会では典礼の際はまずラテン語で読み上げ、その後にスラヴ語を読み上げるとした。一応の妥協が成立した後、885年にメトディオスは波乱の生涯を終えた。しかしその死後、モラヴィアではスラヴ語の典礼は禁止され、メトディオスの努力は酬われなかった。しかも906年頃、モラヴィア王国そのものがマジャール人の攻撃によって滅亡し、その地にスラヴ語で典礼を行う教会組織を作るというキュリロス兄弟の夢は潰えた。
・ブルガリアでスラヴ語典礼が生き返る ところが、スラヴ語典礼は意外なところに生き残った。モラヴィアを追放されたスラヴ語典礼派はバルカンに南下してブルガリアのボリス1世に保護を求めると、ボリス1世は、ビザンツ帝国と対抗する意図もあって彼らを保護、その後のブルガリアで古代スラヴ語によるキリスト教文化が開化することとなった。こうしてブルガリアで保護されたことによって(モラヴィアでは定着しなかったが)ギリシア正教の信仰とキリル文字がスラヴ系の人々に広がっていくことになった。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26>