ハンガリー/ハンガリー王国
東ヨーロッパに位置する共和国。ドナウ川中流の北岸に広がるパンノニア平原に、9世紀末にウラル語族のマジャール人が定住し、1000年に王国を建国した。一時は大国として周辺に支配を及ぼしたが、16世紀に南部をオスマン帝国、北部をハプスブルク帝国に支配され、18世紀にはほぼ全域がハプスブルク帝国領となった。1848年の独立運動は抑えられたが、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)を構成する。第一次世界大戦後単独の国家となったが、国土は3分の1に縮小。ハンガリー革命で社会主義国政権が成立し、一時共和国となったが革命失敗で王国に戻りホルティの独裁政治となる。第二次世界大戦では枢軸側に参戦、敗北しソ連軍が占領。そのもとで共産政権が成立、ハンガリー人民共和国となる。1989年、東欧革命の一環で社会主義政権が崩壊、ハンガリー共和国となった。
- (1)マジャール人の王国とモンゴルの侵入
- (2)王国の全盛期からオスマン帝国の侵入へ
- (3)オーストリアによる支配
- (4)ハンガリー革命の失敗と王国成立
- (5)ハンガリー人民共和国
- (6)ハンガリーの自主路線
- (7)ハンガリー共和国の現在
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マジャールとハンガリー
現在のハンガリー GoogleMap
ハンガリーの歴史上の範囲は現在と異なるので注意
なぜヨーロッパの他民族が彼らをハンガリーと呼ぶようになったのか、についてはいくつか説がある。一つは、ヨーロッパの人たちが、5世紀にこの地方に侵入したフン人と、9世紀に東方から侵入してきたマジャール人を混同し、フン人の Hun に、人を意味する gari がついてハンガリーというようになった、と言う説である。もう一つの説は、この民族が故郷のウラル山脈を出て、9世紀にこの地に移動してきたとき、トルコ系のオヌグール(Onugur)人と密接な関係になったので、他の民族からはオヌグールが変化してハンガリーと言われるようになった、というものである。日本ではハンガリーのハンをフンからきた、という説明をよく見かけるが、現在では後者のオヌグール=ハンガリー説の方が有力な説となっている。<牧英夫編『世界地名ルーツ辞典』 創拓社 p.127 などによる>
また、かつての言語分類ではハンガリー語は「ウラル=アルタイ語族」に分類され、そこからもハンガリー人=マジャール人はアジア系民族といわれていた。例えば、ハンガリーで人名は日本と同じように姓・名の順で言うのもアジア系の証拠だ、などといわれていた。しかし現在では研究が進み、ウラル語とアルタイ語とは全く別な言語系統であるとされるようになった。ハンガリー語はウラル語に属しているとみられ、アジア系ではないというのが現在の見方であり、その源郷はウラル山脈西部だっただろうと考えられている。
ハンガリー(1)マジャール人の王国とモンゴルの侵入
1000年、マジャール人がドナウ中流に建国した国家を英語表記でハンガリー王国という。13世紀にモンゴルが侵入したが、撃退することに成功した。
ハンガリー王国の成立
ウラル語族に属し、ウラル山脈西部で遊牧生活を送っていたと思われるマジャール人は、9世紀ごろから西への移動を開始し、10世紀に西ヨーロッパで「侵入者」と見られるようになった。この非キリスト教徒であるマジャール人の侵入は、キリスト教世界の君主にとって外敵であり、そこから国土と民を守ることが使命とされるようになった。その先頭に立ったドイツ王オットー1世は、955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退した。敗れたマジャール人は、パンノニア平原(現在のハンガリー)に退いて、その地に定住することとなった。キリスト教に改宗 975年、ハンガリーのヴェイク公は、ローマ=カトリック教会のパッサウの司教ピルグリムから洗礼を受け、イシュトバンの名を得た。パッサウはドナウ川中流、ドイツのオーストリアとの国境近くに位置する。非キリスト教徒の子孫であるが、キリスト教に改宗することがヨーロッパで一定の地歩を得ることが必要と考えたのであろう。さらに1000年、イシュトバンはドナウ川の面したエステルゴム(現在のブタペストの北34km)に大司教座を開き、ローマ教皇よりハンガリー国王の王冠を授けられ、イシュトヴァン1世となった。彼は聖イシュトヴァンといわれ、ハンガリーをキリスト教国として導き、キリスト教文化を受容した。イシュトヴァン1世が妃としたのは神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世(ザクセン朝最後の皇帝)の妹ギーゼラであった。この婚姻によって神聖ローマ帝国との衝突を避けたのだった。
ハンガリーは次第に東ヨーロッパの大国となってゆき、1102年にはパンノニア西部のクロアティア人を併合して、同君連合の形態をとった。
モンゴルの侵入
13世紀にロシア、ブルガリアと同じく、バトゥの率いる大モンゴル国軍の侵入を受けた。当時、ハンガリー王国軍はヨーロッパで最強といわれていたが、1241年4月、ムヒの戦い(モヒの戦いとも言う)で惨敗し、さらに首都ブダペストが破壊された。国王ベーラ4世は、ローマ教皇グレゴリウス9世に援軍を要請したが、教皇は当時イタリアで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と激しく争っていたので、支援を断った。ベーラ4世はクロアティアからアドリア海岸まで逃れてバトゥの追撃を振り切った。モンゴル軍の別の一隊は同1241年、ポーランドに侵入し、ワールシュタットの戦い(レグニツァ)でポーランド・ドイツ連合軍を破り、ついでハンガリーの首都ブダペストに向かい、バトゥの本隊と合流して襲撃した。バトゥの軍は41年冬はハンガリーの平原で越冬したが、しかし、翌年引き揚げたため、ハンガリーは占領されずに済んだ。ベーラ4世はハンガリーに戻りモンゴル再来襲に備えて防備を固め、「ハンガリーの第二の建国者」と言われている。ハンガリー(2) 王国の全盛期からオスマン帝国の侵入へ
モンゴルの撤退後、ハンガリー王国は国力を高め15世紀には最盛期となる。しかしその後はオスマン帝国と神聖ローマ帝国に挟撃され、領土を縮小していった。
ハンガリー王国の全盛期
14世紀の後半には、南東からのバルカン半島への新たな脅威としてオスマン帝国が迫ってきた。1389年には、オスマン軍はコソヴォの戦いでセルビア人/セルビア王国軍を破り、北上の動きを示したので、ハンガリー王ジギスムント(神聖ローマ皇帝カール4世の子。彼も1411年に皇帝となる)は十字軍をキリスト教諸国に呼びかけ、1396年にニコポリスの戦いで迎え撃ったが、大敗を喫してしまった。しかし、オスマン帝国は1402年に中央アジアから進攻してきたティムールと小アジアでのアンカラの戦いに敗れたため、一時後退した。マーチャーシュ1世 まもなく勢力を回復したオスマン帝国は、再びビザンツ帝国に圧力をかけ、1453年についにコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。このオスマン帝国の再進出は再びキリスト教世界への脅威となり始めた。この間、ハンガリー王国は態勢を整え、1458年には国民的英雄マーチャーシュ1世が出て、ハンガリー王国の全盛期をもたらした。マーチャーシュ1世は常備軍の創設、官僚制の整備などで貴族の封建勢力を牽制しながら中央集権化を進め、領土を拡張するとともに、都のブダには大学や文庫を設立し、文芸を保護した。このころのハンガリー王国は、ドナウ中流を抑える大国として、ハプスブルク家のオーストリアとオスマン帝国に対抗した。マーチャーシュ1世のハンガリー軍は、1485年、ウィーンを占領し、ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世を追い出したが、1490年に急死し、ハンガリーはボヘミアとともにポーランド王国のヤゲウォ朝の国王を迎えることとなった。それに対する貴族の反攻、さらに農民反乱も起き、ハンガリーは危機を迎えることとなる。
オスマン帝国の侵入
オスマン帝国の北上の勢いはますます強まり、1526年、スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍がハンガリーに侵入してきた。ベーメン王兼ハンガリー王ヤゲウォ朝ラヨシュ2世はモハーチの戦いで迎え撃った。ところが、ラヨシュ2世は戦死し、ハンガリー軍は敗れた。ラヨシュ2世には子がなかったので、その義兄に当たるオーストリア=ハプスブルク家のフェルディナント1世が王位継承権を主張した。それに反対する勢力が、再度オスマン帝国に出兵を要請したため、1529年、スレイマン1世の第1次ウィーンを包囲が行われた。このときは冬の到来とともにオスマン軍が撤退したが、その後も数度にわたって両軍が戦い、1547年までに休戦協定が結ばれた。ハンガリーの三分割 その過程で、ハンガリー王国は次の三つの地域に分割されることとなった。
- 北部・北西部・クロアティアはハプスブルク領(形式的にはハンガリー王国。ハプスブルク=ハンガリーという)。
- 中・南部(ブダペストを含む)はオスマン帝国領。州―県―郡がおかれ直轄支配された。キリスト教信仰は人頭税と土地税、十分の一税を納めることを条件に認められた。強制的改宗は行われなかった。
- 東部はオスマン帝国の宗主権を認める東ハンガリー王国(一定の自治を認められた保護国。後のトランシルヴァニア侯国)。
Episode パプリカの故郷―ハンガリー
ハンガリーの国民的料理はパプリカを使ったグヤーシュという一種の煮込み料理だが、ハンガリー料理にはパプリカが欠かせない。パプリカはトウガラシの一種であり、ハンガリーの原産ではない。トウガラシはジャガイモ、タバコ、トマトなどと同じアメリカ大陸原産の農作物である。それがどういう経路でハンガリーにもたらされたのだろうか。トウガラシはコロンブスの航海の時に早くもスペインにもたらされたと言われているが、間もなくスペインを統治するようになったハプスブルク家がハンガリーにも勢力を伸ばしたことによってトウガラシがハンガリーに伝えられたであろうことは容易に想像できるが、実はスペイン経由のトウガラシは当時は観賞用とされ食べられてはいなかった。オスマン帝国から伝わる 食用、調味料としてのトウガラシは一方でポルトガル人の航海者によってインドにもたらされ、ゴアを中心に急速に広がった。同じ時期にオスマン帝国の勢力もバグダードに及び、オスマン商人とインド人との取引が始まり、トウガラシもオスマン帝国に広がった。16世紀になってオスマン帝国がハンガリーの中南部を支配したことによって、トウガラシも伝えられた。そのためトウガラシは「インド・ペパー」とか「トルコ・ペパー」などといわれたのだった。
パプリカ生まれる トウガラシは世界各地に広がるなかで様々な品種が作られたが、このハンガリーで根付いたのが大型のトウガラシ、パプリカだった。ハンガリーはトウガラシを栽培する北限であるが、パプリカはハンガリー人の食生活のなかに深く入り込み広く栽培されるようになった。1937年にはハンガリーのアルベルト=セント=ジョルジ医学博士は、世界で初めてパプリカからビタミンCの成分(アスコルビン酸)を抽出するのに成功し、ノーベル生理学・医学賞を受賞し国民的英雄となった。さらに始めは粉末にして調味料として使われていたが、1945年には品種改良によって辛味のない肉厚のパプリカを生産できるようになり、現在では世界一の産地となっている。このパプリカの種子は国外に持ち出されないよう、今も国が厳格に管理しているという。<酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.147/山本紀夫『トウガラシの世界史』2016 中公新書 p.72-89>
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ハンガリー(3) オーストリアによる支配
1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー支配権を得たオーストリアがその全域の支配をおこなう。19世紀前半、民族の独立をめざす運動が起こり、1848年独立宣言を行うが、弾圧された。1867年、形式的に独立しオーストリア=ハンガリー帝国を構成することとなった。
オーストリアの侵出
1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に乗り出してきた。しかし、ハプスブルク帝国は他のキリスト教国の支援を受け、この危機を脱した。オスマン帝国の敗戦は、その古い体質が明らかになり、ハプスブルク軍は反撃の機会と捉えた。バルカン半島を南下したハプスブルク軍は軍事的天才オイゲン公が活躍してオスマン軍を追い1686年にはブダ、88年にはベオグラードを制圧、一方でプファルツ継承戦争でフランスと闘いながら、1697年のゼンタの戦いでオスマン軍に大勝し、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリー全域を奪回した。カルロヴィッツ条約
オスマン帝国は17世紀末にはオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア連合軍と戦って敗れ、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはオーストリアのオーストリア・ハプスブルク家の領土とされた。その後ハンガリーはオーストリア帝国の一部としてその支配を受けることとなった。マリア=テレジアの統治
オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ帝国であると共に、ハンガリー王(およびボヘミア王)としてハンガリーを統治した。1741年にはマリア=テレジアがハンガリー国王となり(皇帝は夫のフランツ1世)、オーストリア継承戦争で危機となった1741年9月11日にはハンガリーの首都プレスブルク(現在のスロヴァキアのブラチスラヴァ)で開会中のハンガリー議会に登場して協力を訴え、支持を受けた。ハンガリーの民族運動
19世紀前半のウィーン体制の時代にナショナリズムの運動が強まると、オーストリア支配下のハンガリーでもハンガリー民族運動(マジャール人民族運動)が始まり、それは1848年の諸国民の春の高まりの中で、1848年3月15日、コシュートに指導されて独立宣言を出し、オーストリア皇帝もそれを認め、ハンガリーはオーストリアと同じ皇帝をいただく同君連合の独立国家となった。しかし翌年、オーストリアはマジャール人に対するクロアティア人の反発を利用して、その弾圧にあたった。イエラチッチに率いられたクロアティア人部隊がコシュートの率いるハンガリー軍に撃退されたため、オーストリアは本格的武力制圧に乗りだし、1849年にはブダペストを占領した。コシュートらは革命臨時政府を樹立して、完全独立とハプスブルク家の失権を宣言、ブダペストを奪還した。しかし、オーストリアはロシアの援軍を要請し、ようやくハンガリー独立運動を鎮圧した。革命に失敗したコシュートはオスマン帝国に亡命した。
ハンガリー独立失敗後は、オーストリアの属領として専制的な直接統治がおこなわれ、公用語はドイツ語にされるなど、民族的自由は完全に奪われた。
オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)
19世紀後半、ハンガリーはオーストリアの属領として支配される状況が続いたが、そのオーストリアはドイツ統一問題でプロイセン王国に主導権を握られ、次第に勢力を弱めていった。普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)で敗れたオーストリアは、1867年3月にアウスグライヒといわれる転換をはたした。これはハンガリー王国の形式的な独立を認めるが、国王はハプスブルク家のオーストリア皇帝が兼ねるオーストリア=ハンガリー帝国とするということで、これによって二重帝国といわれる状態となった。つまりハンガリーは形の上では独立し、独自の議会も設置されたが、オーストリアに支配されている実態には変わりはなかったので、その後も完全な独立を求める運動が続いた。ハンガリー(4) ハンガリー革命の失敗と王国成立
第一次世界大戦終結に伴い1918年に共和国として独立。1919年、ソヴィエト尾政権を目指してハンガリー革命が起こったが、軍によって鎮圧され、ホルティの独裁政治のもとで形式的に王国となる。
ハンガリー革命
翌1919年3月クン=ベラがロシアにならってソヴィエト政権の樹立を試みハンガリー革命を起こしハンガリー評議会共和国を樹立したが、国民的な支持が無く、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や反革命軍の蜂起によって同年8月に崩壊し、権力は反革命の国民軍司令官ホルティが掌握し、ハンガリー王国となる。トリアノン条約
1919年9月、連合国がオーストリアと締結したサン=ジェルマン条約で、ハンガリーのオーストリアからの独立が承認された。さらに、1920年6月にはハンガリーは独自で連合軍との講和条約トリアノン条約を締結し、ハンガリー王国として主権を回復したが、同時に周辺諸国に領土の3分の2を割譲することを受け入れた。このドリアノン条約による領土削減は、ハンガリー人の中に不満の感情を強く残し、後に反ヴェルサイユ体制を唱えるナチス=ドイツとの提携へと動いていく背景となった。Episode 「国王なき王国」
ハンガリーは1918年10月から19年8月まで、わずか10ヶ月強の間に、オーストリア=ハンガリー帝国→ハンガリー共和国→ハンガリー評議会共和国(革命政権)→ハンガリー王国と4つの国家体制を経験したわけだ。ところが最後のハンガリー王国は、王国とは言いながら国王がいなかった。これは国内に、ハプスブルク家の国王カール4世(スイスに亡命中)を復活させようという動きと、それに反発してマジャール人の国王を立てようという動きが対立していたからだ。カール4世は復活を狙って運動していたが、ホルティはそれに反対で、結局カール4世の王位継承権を剥奪したが、マジャール人の王も適当なものが見つからず、結局ホルティが摂政のまま国家元首を務めるという異例の形になってしまった。ハンガリー王国のホルティ政権
ハンガリー王国は立憲君主国であるが「国王なき王国」といわれるように、国王をおかないままホルティが摂政がとして実権を握るという異常な状態となった。ホルティの摂政としての権限は、軍の最高司令官であるとともに議会の解散権を持ち、首相の任命権と罷免権、さらには議会の決議をへた法案への拒否権も与えられているという絶対的なモノであった。ホルティにはこのように絶対的な権限が集中していたが、共産党以外の政党の存続は認められ、議会政治も機能していたので、ヒトラーやムッソリーニのファシズムの独裁政治とは異なっている。このような体制は権威主義体制と言われることが多い。
第二次世界大戦に枢軸国として参戦 ホルティのハンガリー王国は1930年代、ドイツにナチスが台頭すると、領土回復の好機ととらえてドイツに近づき、1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦した。ドイツとの提携は、国内のファシズム政党である矢十字党によって進められ、ドイツやポーランドと同じようにユダヤ人の絶滅が図られ、45万にものユダヤ人がアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られた。
ハンガリー軍はドイツ軍の一部として動員され、スターリングラード攻撃などに加わったが、次第に敗北が明らかになってきた。1944年に摂政ホルティの意向を受けた内閣が連合国と単独講和を探ったが、ドイツはそれを阻止するために軍隊を派遣して占領下に置いた。ドイツ占領下のハンガリーに同年末、ソ連軍が侵攻して東部を解放、それに応えてハンガリーの小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立した。ホルティは亡命して、ハンガリー王国は崩壊した。
ハンガリー(5) ハンガリー人民共和国
第二次大戦後、1949年から社会主義国となり、国号をハンガリー人民共和国とする。1956年に反ソ暴動が起きたが、ソ連軍の介入で鎮圧された。
社会主義政権の成立
ハンガリー解放を実現したソ連軍は軍隊をそのまま駐屯させ、ハンガリーの内政に対しても強い影響力を持っていた。1947年6月にはハンガリー政府にマーシャル=プランの受け入れを断念させ、1949年1月にはコメコンに加盟させた。共和国政府の内閣で共産党は内相ポストを獲得し、警察力を握り、反対党を様々な口実を設けて排除していった。1948年に共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党に改称し、党員約150万を要する大政党となり、1949年5月の総選挙で「民主ブロック」選挙といわれる勤労者党が作成した「独立人民戦線」単一候補者名簿にもとずく選挙が行われ、同戦線が96.5%の得票を得て政権を獲得した。8月に新憲法が採択され、ハンガリー人民共和国という国号になった。このような方式は人民民主主義と言われるもので、他の東ヨーロッパ社会主義圏に共通してみられる、共産党が実質的に権力を独占するための方便であった。
ハンガリー人民共和国政府はソ連に倣い、産業国有化と集団化を推し進め、1950年に第一次五ヶ年計画を開始して工業化をめざした。その間、政権内部では激しい権力闘争が行われ、ソ連亡命経験のあるラーコシ書記長が反対派に対する粛清を行い、「小スターリン」と言われて実権を握った。1953年のソ連のスターリンの死によってラーコシは一時失脚、ナジ=イムレが首相となり、集団化の見直しなどを図ったが、55年は再びソ連の圧力が強まり、集団化が再強化され、ナジ=イムレは失脚した。同年、ワルシャワ条約機構に加盟した。
ハンガリー動乱
1956年のスターリン批判を機にハンガリー反ソ暴動が勃発、ナジ=イムレが改革派に推されて復帰し、ワルシャワ条約機構から離脱し、独自路線を掲げたが、ソ連軍の直接介入によって鎮圧され、ナジも処刑された。ハンガリー(6) ハンガリーの自主路線
ハンガリー反ソ暴動鎮圧後、1960年代から市場社会主義路線が採られる。
しかし1963年頃から改革派よりの姿勢を強め、1968年には130人の専門家(経済学者)を組織して「新経済メカニズム」を発足させ、経済運営を計画経済よりも経済パラメーター(指標)にゆだねる「市場社会主義」の実験(ユーゴスラヴィアではすでに始まっていた)に着手した。このように東欧諸国の中で1960年代に明らかになった経済停滞(低成長)からの脱却を目指す改革をはじめたのがティトーのユーゴスラヴィアとカーダールのハンガリーであった。
チェコ事件への軍事介入 カーダールは1968年のチェコ事件でもチェコのドプチェクと会談して事態の解決を模索し、最後までソ連軍の軍事介入には批判的だったが、最終的には軍事介入に参加した。カーダール政権の経済改革は政治の民主化に影響を与え、1970年には複数候補者を認める選挙法が改正された(これは後のソ連のゴルバチョフに先行する改革だった)。
しかし、1973年の石油ショックによって経済改革にストップがかかり、またソ連のブレジネフ政権はハンガリーの改革に対する警戒を強めたため改革は順調には進まなかった。この間、ポーランドやルーマニアは過度な工業化を進めようとして混乱を大きくしたが、ハンガリーではニエルシュなどの改革派が慎重な姿勢をとり、それが1989年の穏健な形でのハンガリーの民主化実現の要因となったと思われる。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 などによる>
ハンガリー(7) ハンガリー共和国の現在
1989年初頭、ハンガリーは複数政党の承認など改革を開始し、一党独裁体制打破という民主化の先鞭を付け、同年中に社会主義体制を放棄した。5月にオーストリアとの国境の鉄条網を切断して、東独市民が西独に脱出する動きを作り、これはその年の東欧革命の始まりとなった。
ハンガリー人はマジャール人の子孫とされているが、現在のハンガリー人はスラヴ系の民族との混合の結果形成されものと考えられる。宗教的には半数以上がカトリックだが、2割ほどのプロテスタントも存在する。
ハンガリーの民主化
1989年2月に複数政党制の承認、「党の指導性」の規定の削除など、大胆なハンガリー民主化に踏み切りった。6月には労働者党と野党、諸団体が協議の場として「政治協商会議」(国民円卓会議ともいう)を設置、労働者党自身も党則を改編して西欧の社会民主党的な組織に転換を図った。その中で歴史の見直しが進み、1956年のハンガリー反ソ暴動でソ連によって殺害されたナジ=イムレの再葬儀が6月16日に行われた。8月16日には、1968年のチェコ事件での軍事介入を誤りであったと認めた。同年10月23日(ハンガリー動乱で大衆デモが行われた記念日)に社会主義体制を放棄しハンガリー共和国の発足が宣言された。ハンガリーの民主化は、一滴の血も流されずに実行された点が特筆される。また、他の東欧諸国と異なり政権党自身が自己変革を遂げることで行われた点も異なっている。
東欧革命のきっかけ
ハンガリー政府が5月2日にハンガリーとオーストリア(中立国)の間の有刺鉄線を切断して国境を開放した。それによって、東独の住民が、ハンガリーからオーストリアに逃れ、西独に向かうという大移動が始まった。1989年8月19日、国境の町ショプロンで600人の東独市民がオーストリアに脱出したのが黙認された。このできごとは鉄のカーテンの一部が破られたことを意味していた。それらをうけて9月2日に、政府は国内に滞留している東ドイツ国民が西側に出国する許可を与え、事実上、東西の移動制限は撤廃された。これによって東ドイツは国民の西側への脱出をとどめることができずに崩壊したことから、ハンガリーの改革は一連の東欧革命の先頭に立ったと言うことが出来る。同1989年11月にはベルリンの壁の開放、90年には東西ドイツの統一、そして91年のソ連崩壊へと進んでいく。
Epsode 歴史の転換をもたらした“ピクニック”
1989年8月19日、ハンガリー西部、オーストリア国境に近いショプロンという町でたくさんの市民がピクニックを楽しんでいた……が、それは西側のオーストリアに脱出する東ドイツの人々を支援する市民団体が開催した集会だった。約600人の東ドイツの人々は平和裏に国境を越え、立ち会っていたハンガリー当局者も発砲することなく黙認した。このできごとは「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれ、この年12月のベルリンの壁の崩壊の契機となり、一連の東欧諸国の民主化、いわゆる東欧革命をもたらしたとして今も語り継がれている。2019年の同じ日、ショプロンで記念行事が開かれ、ハンガリーのオルバン首相と共に出席したドイツのメルケル首相は、ドイツ統一にいたったこのできごとを「自由と連帯の象徴」と呼び、発砲を控えて越境を黙認したハンガリー当局者の人道的判断をたたえた。ショプロンにはドイツとハンガリーの若者約50人が招待して若年層の参加を促し、討論会ではピクニックを主催した人々が当時を振り返り、歴史の継承と、移民排斥など後戻りする動きへの危惧が語られた。<『朝日新聞』2019/8/20朝刊>
市場経済と議会制民主主義へ
翌1990年4月、ハンガリーで40年ぶりに行われた自由な国会議員選挙の結果、民主フォーラムを中心とする非共産党政権が発足し、議会制民主主義国家への転換は平和裏に行われた。その後、社会党(旧社会主義労働者党)が選挙で復活するなどの動きはあるが、市場経済への移行は順調に進み、1991年にはポーランド・チェコスロヴァキアとともに経済協力を進めることで合意しヴィシェグラード=グループを結成した。1999年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。 → NATOの東方拡大 ・ EUの東方拡大News 極右政党の勢い
2010年4月に行われたハンガリーの総選挙で、新興の極右政党が議会への初進出をはたし、注目を浴びた。極右政党ヨッビクは、2003年にわずか14名の学生で設立され、民族主義や愛国精神を訴えて若者や貧困層の支持を得、あっというまに党員は1万名に増加した。党首は31歳のモナ・ガボールで「われわれの支持者は100万人にまで成長した!」と豪語している。党の戦略は従来の極右政党のような反ユダヤ主義や外国人排斥を声高に訴えず、市民の差別意識や反感が根強い少数派ロマ人の「犯罪の抑止」を前面に掲げている。07年にはハンガリー防衛隊を設立してロマ人の村に押しかけ排斥の示威行動を繰り返した。彼らはライオンの刺繍をあしらった黒い制服や紅白のスカーフなど、第二次世界大戦当時の親ナチス勢力「矢十字党」を連想させるので、裁判所から解散命令を受けたが、名称や制服を替えて活動を続けている。
ハンガリー社会ではロマ人が犯罪の温床になっているという見方が強く、また貧困層にはEUに加盟したことで西欧の大企業に利益を奪われ、通貨危機に見舞われたという不満が多い。既成政党の経済政策に不満を持つ層が、ロマ攻撃と反EUを掲げた極右政党を支持する背景となっている。
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