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ジャックリーの乱

14世紀のフランスで起こった農民の一揆。

 フランスの農民は、農村が百年戦争の戦場となって荒廃し、さらに黒死病(ペスト)が大流行する中、貴族(封建領主)の封建反動がさらに強まってくることに対し、強い反撥を感じるようになっていた。
「一揆は1358年5月21日、ボーヴェの郊外からはじまつた。農民は棒のさきに刃物をつけ、隊をつくつて、領主の家屋敷をめがけて殺到した。貴族の家では女・子供までが殺害され、邸館(シャトー)は掠奪され、焼かれもした。叛乱はボーヴェからアミアン、ラン、ソワソン、ヴァロアの各地区に及び、イール・ド・フランスのすべての地方に拡った。最初農民は衝動約な情熱に駆られたまま、暴行を行ったが、やがて、ギョーム・カール(彼の経歴は今なお明らかになし得ない。農民か職人か、いずれにせよ平民出身の男で、マルロという村落に住み、早く平和を保つ努力をした。)をはじめ幾人かの指導者によつて統率され、腐敗しかつ裏切の主謀者である貴族を打倒することに目標が定められた。」<金沢誠『フランス史』>
当時、王権に反撥して反乱を起こしていたパリ市長エチエンヌ=マルセルも、ジャックリーの反乱に合流したが、ギョーム・カールがナヴァル王に殺害されると一揆軍は総崩れとなり、貴族の反撃が始まり、2万にのぼる農民が殺され、エチエンヌ=マルセルも殺害されて反乱は失敗に終わった。 
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