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百年戦争

1339~1453年までのイギリス王とフランス王の戦争。王位継承、領有権での対立などが原因であったが、長期化し、その間に農民一揆や黒死病の流行などもあり、両国とも封建領主層が没落し、王権による統合が進み、国民国家形成にすすむという社会と国家の大きな変動がもたらされた。戦いはフランス領内で展開された。

 14世紀の中ごろから15世紀中ごろまで、約百年にわたって断続的に続いたので百年戦争という。1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張してヴァロワ朝フィリップ6世に挑戦状を発し、両国は戦争状態となる。イギリス王のフランス遠征は1339年に始まったが、実際の戦闘は1340年に始まり、以後、断続的に約100年間続き、1453年に終結し、フランス内のイギリス王領はカレーを残して消滅した。 → フランス  イギリス
注意 英仏百年戦争という呼称は注意 この戦争は普通、イギリスとフランスの戦争と言われ、英仏百年戦争とも呼称されることがあるが、当然のことではあるがこの戦争は近代的な主権国家間の戦争ではないので、国家間の戦争ととらえると本当の姿を見誤ることになるので注意を要する。端的に言えばこれはプランタジネット家とヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いに、封建諸侯の領地争いが重なったものである。イギリスとフランスという二つの国家の国民が戦争をしたのではない。戦場はフランス内部だけであり、フランスの領主たちが二派に分かれて争ったのがその内容である。この長期間の戦争を経て封建領主が没落し、フランス側ではシャルル7世の時期までに常備軍の組織化を進めて絶対王政の基礎を築き、一方イギリスでも百年戦争に続くバラ戦争によって封建領主の没落が進んだことによってテューダー朝の絶対王政が準備された。フランスのジャンヌ=ダルクの登場は、フランスの国家と国民という自覚が生まれる触媒の役目を果たしたと言える。

百年戦争に至る英仏王家の対立

 まず、イギリス国王はフランス国内に領地をもち、その面ではフランス国王に臣従しなければならない立場であったことを理解することが重要である。その始まりは1066年のノルマンディ公ウィリアムの征服によってノルマン朝が成立したことであり、1154年に成立したプランタジネット朝ヘンリ2世もイングランドの他にフランス内にアンジューノルマンディーアキテーヌ(ギエンヌ)などの領地を持っていた。つまりイギリス王は国王であると同時にそのフランス領はフランス国王から与えられた形式になっているので、フランス王に臣従しなければならなかった。その後、イギリス王はフランス内の所領の拡張をめざし、フランス王はイギリス王領を駆逐してフランス全土の支配を目指したたため、両王の対立は11~12世紀を通じて続いていた。
 13世紀初め、イギリスのジョン王の時、ノルマンディーなどをフランスのフィリップ2世に奪われた。イギリス側からはそれを奪回すること、フランス側からは、国内のギエンヌ地方など残るイギリス領をなくし、国土を統一することがそれぞれ強い欲求、課題となっていた。また途中からフランス内の有力諸侯であるフランドル(フランドル伯)とブルゴーニュ公がイギリスと同盟し、一方イングランドと対立したスコットランドがフランスと結ぶなど、双方とも国家的統一がとれておらず、その点でも近代以降の主権国家間の戦争とは大きく異なっている。
背景 ローマ教皇の調停力の低下 イギリス(イングランド)王家とフランス王家が決定的な対立に至ってしまった背景には、当時のヨーロッパ情勢も要因としてあげられる。中世のヨーロッパでは国王間で王位継承や領土問題で対立が生じた場合、ローマ教皇に仲介を依頼するのが通例であった。ところが、当時はローマ教皇は1309年からの教皇のバビロン捕囚の時期であり、フランスのアヴィニヨンにあってフランス王に監視され、この時期の教皇はすべてフランス人であったので、イギリスが仲介を依頼できる状態ではなかったのだった。1377年に教皇はローマに戻ったが、1378年からは教会大分裂(1417年まで)となり、ローマ教皇が国王間の対立を調停する能力を失っていたことが、この戦争が起こり、長期化した背景にあげられる。

百年戦争の原因

 両王家間の対立の直接的要因は、王家の所領をめぐる争いと、フランス王位継承権をめぐる争いの二面があった。
  • 領地問題:イギリス産の羊毛を原料として毛織物産業が盛んであったフランドル地方の支配権をめぐる争いがもっとも中心的な対立点であったが、他にもイギリス領となっていてぶどう酒の産地として重要なギエンヌ地方をフランス王が奪回しようとしたことがあげられる。またイギリス側には、スコットランド内の反イングランド勢力がフランスと結んでいたことなどがあげられる。
  • 王位継承問題:フランス王国のカペー家の王位が断絶した際、ヴァロワ家のフィリップが立ったのに対し、カペー家出身の母をもつイギリス王エドワード3世が王位継承を主張した。これは開戦の口実という意味が強い。

百年戦争の経過 前半

イギリス側の優勢な前半
クレシーの戦い

百年戦争 クレシーの戦い

 実際に戦闘が始まるのは1339年9月末、エドワード3世は北フランスに侵入してからで、以後百年にわたり、途中中断しながら、フランスを戦場として戦争が展開される。戦争の初期には、イギリスがそのヨーマンを中核とした長弓隊の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めた。1346年クレシーの戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破り、戦術の転換によるイギリスの有利な戦いが明白となった。1347年はイギリス軍がカレーを占領し、長く支配することになる。また1356年ポワティエの戦いでもエドワード黒太子の活躍でイギリス軍が勝利した。
黒死病の流行と農民反乱の勃発  しかし1348年1348年に全ヨーロッパに広がった黒死病(ペスト)の大流行は、英仏両国に大きな打撃を与え、また1358年にはフランスでジャックリーの乱1381年にはイギリスでワット=タイラーの乱という農民の反封建闘争が激化し、両国とも社会不安を増したため、戦争は長期化した。

百年戦争の経過 後半

フランスの内乱 戦争の中期には一時フランスが盛り返したが、1400年代に入り、フランス側は内部分裂もあって再びイギリス軍の攻勢が強まった。ヴァロワ朝のシャルル6世が脳神経疾患が昂じ、その弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競い合った。1407年、ブルゴーニュ公がルイを暗殺したため、「ブルゴーニュ派」(東部・北部が基盤)と「オルレアン・アルマニャック派」(西部・南部が基盤)の内乱となった。
アザンクールの戦い フランスの内乱に乗じてイギリスはランカスター家ヘンリ5世がノルマンディに侵入、1415年アザンクールの戦い(アジャンクール)で大勝した。ブルゴーニュ派はイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで亡くなると、イギリスとブルゴーニュ派は幼少のヘンリ6世(ヘンリ5世とシャルル6世の娘の間の子)を英仏両国の王として即位させた。それに対抗してオルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させた。これによってフランス王位は分裂したこととなる。
イギリス軍のオルレアン包囲 シャルル7世は、ブルゴーニュ派に抑えられているパリには入れず、ブールジュを拠点としていたが、イギリスの攻撃を避け、各地を転々とした。1428年、イギリス軍はフランス中部の要地でオルレアン・アルマニャック派の拠点であるオルレアンに対する総攻撃を開始、シャルル7世にはオルレアン救出の手立てが無かった。
ジャンヌ=ダルクの登場 このときドンレミ生まれの一人の少女ジャンヌ=ダルクが、神のお告げがあったとして、1429年2月にシャルル7世とシノン城で面会、オルレアン解放のため立ち上がることを促した。その言葉に動かされたシャルルは軍を起こし、ジャンヌがその指揮に加わり、4月末にオルレアンに入り、守備隊と共にイギリス軍と戦い、1429年5月8日にはオルレアンの解放に成功した。
シャルル7世の戴冠とジャンヌの死 オルレアンを解放したフランス軍は反撃に転じ、ジャンヌに促されてランスに赴いたシャルル7世は、歴代フランス王の先例に倣い、7月17日、ランス大聖堂で国王塗油の儀式を行い、正式に即位した。ついでジャンヌ=ダルクの率いるフランス軍は、パリ攻略に向かったが、それには失敗した。ついで1430年5月、コンピエーヌでブルゴーニュ派のフランス兵と戦ううち、ジャンヌ=ダルクは捕らえられ、イギリス軍に引き渡された上で宗教裁判にかけられ、1431年5月、ルーアンで火刑に処せられてしまった。

百年戦争の終結

 シャルル7世は1435年にブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城した。その後も戦闘が続き、ようやく1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス本土からイギリス支配地はなくなり、百年戦争は終結した。

参考:百年戦争の年代とその名称

(引用)もちろん、この戦争は当初から百年戦争と言われたわけではない。戦争の開始の時期も、フランスのフィリップ4世がギエンヌの押収を行った1294年とする説もあり、両国が断絶状態になった1337年か、実際に戦闘が始まった1339年とする場合もあるし、終結の年も一般にはフランスがギエンヌを奪還し戦闘が終わった1453年とされるが、1475年に両国の間で条約が結ばれたことを終結とする意見もある。1337~1453年なら116年、1294~1475年までとすれば181年続いたことになる。この断続的な両国の戦争を「百年戦争」と言うようになったのは、19世紀初頭のフランスの学校教育のなかでのことだと言われている。<この項 フィリップ・コンタミーヌ『百年戦争』文庫クセジュ 坂巻昭二訳 による>

百年戦争後の情勢

 戦後は、フランスは国土の統一的な支配を実現してヴァロワ朝シャルル7世のもとで王権による支配が強化されていき、イギリスではランカスター家とヨーク家の王位継承争いから諸侯が二陣営に分かれて争うバラ戦争に突入し、さらに封建諸侯の没落が加速して、テューダー朝の絶対王政へと向かっていく。
 百年戦争の終わった年、1453年には、東ヨーロッパでは、オスマン帝国によるコンスタンチノープル陥落によってビザンツ帝国が滅亡した年である。また、この時代は北部イタリアでルネサンスが展開されていた時期であって、ビザンツ帝国が滅亡したことによって多くのギリシア人の古典学者が、イタリアに逃れたことによって、フィレンツェなどのイタリアの都市文明がビザンツ・イスラーム文化と接触し、ルネサンスの興隆に大きな役割を果たしたことも忘れてはならない。

百年戦争の影響

 百年戦争は、フランスでもイギリスでも、封建領主の没落をもたらし、王権が強化されることになった。国王のもとで統一的な国家機構がつくられ、いわゆる絶対王政を出現させ、領土と国民を明確にした主権国家が形成される契機となった。大きく見れば、封建社会から近代的な主権国家への移行の契機となったと考えられる。

百年戦争時代の世界

 このように百年戦争を契機として英仏は主権国家体制への道を歩み始めたが、ドイツでは神聖ローマ皇帝カール4世が1356年に金印勅書を出して帝国の分裂状態は固定化され、イタリアはすでにルネサンスが展開されていたが、都市共和国の分立、ローマ教皇領などに分断され、国家的統一は大幅に遅れていた。またこの時期はローマ教会が大分裂という事態を迎えており、その権威が大きく動揺し、イギリスのウィクリフとボヘミアのフスの教会改革運動が始まっていた。封建社会とキリスト教教会という中世ヨーロッパを支えた二本の柱が揺らぎ始め、次の大航海時代・主権国家の時代へと移行していくこととなる。
 一方、ヨーロッパの東部、バルカン半島ではイスラーム勢力であるオスマン帝国の進出が激しく、1396年にはニコポリスの戦いでハンガリーなどのキリスト教国連合軍を破った。中央アジアトルキスタンで1370年に自立したティムール朝が西アジア一帯に進出、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破ったが、15世紀なかごろに急速に衰退し、かわってオスマン帝国が再び有力となり、百年戦争終結の年、1453年コンスタンティノープルを陥落させビザンツ帝国を滅ぼした。その後、イランにはサファヴィー朝、インドにはムガル帝国というイスラーム系専制国家が登場する。東アジアでは、漢民族がモンゴルの支配を倒し、1368年朱元璋を建国、15世紀前半には最盛期を迎え、鄭和をインド洋に派遣するなどの動きを示している。朝鮮半島では1392年に李成桂朝鮮王朝を建て、日本では同年に足利義満のもとで南北朝が統一され、室町幕府の支配が安定し、盛んに勘合貿易が行われた。
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