シモン=ド=モンフォール
イギリスの貴族で、1264年に貴族の反乱を指導し、ヘンリ3世に議会開設を認めさせた。
父はフランスのアルビジョワ十字軍で活躍した同名のシモン=ド=モンフォール。その子のレスター伯シモン=ド=モンフォールは、イギリス貴族としてプランタジネット朝に仕えていた。プランタジネット家はフランスに領土を持ち、フランス人の臣下も多かった。
貴族の反乱を指導
当時、国王ヘンリ3世は、前王のジョンが認めたマグナ=カルタを無視して、自己の大陸政策を進めるため、その財源として重税政策をとり、貴族に課税しようとしていた。シモン=ド=モンフォール等の貴族はそれに反発して、1258年には「オックスフォード条項」を国王に認めさせ、貴族の代表による国王の政治に対する監視機関の設置、定期的な議会の招集などを約束させた。貴族の反乱を組織
しかしヘンリ3世は、ローマ教皇やフランス王ルイ9世の支援を得て反国王派の貴族の排除を図ったので、シモン=ド=モンフォールは1264年に「貴族の反乱」を組織、国王軍と戦って、国王を捕虜とし、議会の開設を認めさせた。それに基づき、1265年に貴族・聖職者・州のと都市の代表をロンドンに召集し、議会(パーラメント)が開催された。これをモンフォール議会という。しかし、同年に皇太子エドワードの率いる軍と戦い、戦死したため、この議会は定着しなかったので、直ちに議会政治が実現したわけではない。