2013年度 詳説世界史 準拠ノート
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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
3節 西ヨーロッパ中世世界の変容(後)
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キ.イギリスとフランス
■ポイント 百年戦争を通じて英仏において封建国家から主権国家への変化が始まったことを理解する。
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- 13~14世紀 西ヨーロッパ諸国で国王によるa 身分制議会 の招集が始まる。
=b 国王が課税などを要請するため、貴族・聖職者・都市の身分別代表を召集した会議。
→ 国王がc 封建領主・教会・都市 と妥協を図りながら、国王の権力強化、統一的支配をめざした。 - イギリスの模範議会、フランスの三部会がその例。他にドイツの帝国議会、スペインのコルテスなどが該当する。
- 意義と限界 d 議会制度の源流であるが、国王の諮問機関にすぎず、議員も国民が選出したものではない。
(1)イギリス
Aノルマン朝 1066年 ウィリアム1世のa ノルマン=コンクェスト で成立。(前出)
- 王権の特長 他のヨーロッパ諸国に比べb 征服王朝であったので、はじめから王権が強かった。
イギリス領では国王だが、フランス領ではフランス王の臣下であった。1154年 断絶。
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Bプランタジネット朝 1154~1399年- フランスの有力諸侯a アンジュー伯 (プランタジネット家)のb ヘンリ2世 が王位継承。
= フランス国内のノルマンディー、ギエンヌ地方などに領地をもつ。
→ c イギリス王でありながら、フランス領についてはフランス王の臣下である という状態が続いた。 - リチャード1世(獅子心王) フランス王と対立。第3回十字軍を主導。サラディンと講和(前出)。
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C大憲章(マグナ=カルタ)- a ジョン王 、フランス王b フィリップ2世 と争い、ギエンヌ地方を除くフランスの領土を失う。
- c カンタベリー大司教 の任命をめぐり教皇d インノケンティウス3世 と争い、破門される。
→ 王が財政難から貴族に対し重税を課したため、貴族が一致して反抗。 - 1215年 国王、C 大憲章(マグナ=カルタ) を発布。
- 内容=e 国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止など を国王が認めた。
→ 貴族の従来の特権を王が認め、王権が制限されることとなった。 - 意義 f 国王といえども法に服するという原則ができる。
→ イギリスのg 立憲政治 の出発点とされ、現在もh イギリスの憲法の一部 となっている。
解説
資料 マグナカルタの主要な内容
- 第1条〔教会の自由〕 まず第一に、イングランドの教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。
- 第12条〔国王の課税権の制限、課税同意の原則〕 いかなる軍役代納金(注1)も援助金(注2)も、わが王国の共同の助言(注3)によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。
- 第13条〔都市の自由〕 ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを、朕は欲し許容する。
- 第14条〔課税同意の手続き〕 (軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。・・・召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。
- 第39条〔自由人の権利、適法手続きの原則〕 いかなる自由人も彼の同輩の法に適った判決か国法によるのでなければ、逮捕あるいは投獄され、または所持物を奪われ、または追放され、または何らかの方法で侵害されてはならない。
- 第40条〔裁判の尊重〕 朕は何びとに対しても正義と司法を売らず、何びとに対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。
注1 軍役代納金:中世封建制では家臣は年間40日の費用自弁の軍役の義務があったが、12世紀にはそれが貨幣で代納されるようになった。それが軍役代納金(楯金または軍役免除金ともいう)で、王や諸侯はその代納金で傭兵を雇うようになっていた。 注2 家臣の王、主君に対する義務の一つとしての献金。 注3 第14条に述べられている「王国の一般評議会」(全体の協議会)のこと。
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D模範議会 の成立。- 次の国王a ヘンリ3世 は大憲章を無視。 → 貴族の反抗強まる。
- 1265年 b シモン=ド=モンフォール 貴族を率いて国王軍を破る。
同年、議会を招集。このc モンフォール議会 がイギリス議会の起源とされる。
= すでにあった貴族、聖職者の会議に、d 各州代表の騎士と都市の代表 を加えた会議。 - 1295年 e エドワード1世 がD 模範議会 を召集。
f 高位聖職者・大貴族の他に各州2名の騎士と、各都市2名の市民代表 が出席。
= イギリスにおけるg 身分制議会 の成立。
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E二院制 の成立。- 14世紀 エドワード3世のときに始まる。利害の対立する身分の代表がお互いを牽制し合う。
a 上院 :貴族、聖職者の代表で構成。
b 下院 :各州と都市の代表で構成。 - その地にd ラテン帝国 を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。
- 権限のちがい :c 法律の制定・新税の課税については下院の承認が必要とされた。
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・d ジェントリー(郷紳) の成長:かつての騎士階級が土着し、小地主として州の代表となる。
解説
英語の歴史 英語はもともとはアングロ=サクソン人の言語であった。ブリテン島の先住民ケルト人の言語の影響は少ない。デーン人などのノルマン系の侵入が始まると言語もその影響を受けるようになった。キリスト教が伝えられるとラテン語が宮廷での公用語とされ、その語彙が英語に取り入れられた。1066年、フランスの一部であったノルマンディーからやってきたウィリアムによってイングランドが征服され、ノルマン朝が成立すると、彼らはフランス語を使用していたので、宮廷の支配者はラテン語とフランス語を使用し、民衆は英語を使用するという状態となった。次のプランタジネット朝も同様な状態が続いた。中世を通じて民衆の使用する英語にもフランス語の影響が強く及んだが、公用語とはされず、1214年のマグナ=カルタなどもラテン語で書かれている。しかし、ジェントリーや都市住民が力を付けてくると次第に英語が宮廷でも使われるようになり、百年戦争でフランスの領地を失った貴族たちも大陸への関心を失って、14世紀のなかばごろからラテン語・フランス語に代わって英語が宮廷でも使用されるようになった。聖書の英語訳を行ったのは14世紀のウィクリフであった。また英語で書かれた最初の文学書は同時期のチョーサーの『カンタベリー物語』である。・▲イギリス独自の文化の形成(例 英語の公用語化)。
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(2)フランス
・Aカペー朝 987年 パリ伯ユーグ=カペーに始まる。 ~1328年
国王は北フランスの一部を領有するだけで、a 王権は弱く、各地に大諸侯が分立していた。
Aフィリップ2世 (尊厳王) 12~13世紀初め 都市と結び諸侯を押え、王権を次第に伸張させる。
- イギリス王c ジョン王 と争いギエンヌ地方を除くイギリス領を奪う。(前出)
- ▲1214年 ブーヴィーヌの戦い で、神聖ローマ帝国・イギリス王国などの連合軍を破る。
→ フランス王権確立の第一歩となる。
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Bルイ9世 (聖王) 13世紀 a 第6、第7回十字軍 を起こすも失敗。(前出)- 異端の弾圧 南フランスのb アルビジョワ派(カタリ派) に対する遠征を終わる。
→ フランスの王権、南フランスに及び、国内の統一が進んだ。
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Cフィリップ4世 (端麗王) 14世紀初め、フランスの国家統一を達成、絶対王政を準備。- 教会への課税を巡り、ローマ教皇a ボニファティウス8世 と対立。
- 1302年 b 三部会 召集:c 聖職者、貴族、都市の商人 の各身分代表を集め、
国王の課税権を承認させる。 = フランスにおけるd 身分制議会 の始まり。 - 1303年 e アナーニ事件 起きる(前出)。1309年には、f 教皇のバビロン捕囚 を実行。
- 1312年 ▲g テンプル騎士団 (巨大な財産を有していた)を解散させ財産を没収。
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・13~14世紀 イギリスとフランスでともに王権強化が進み、互いに対立するようになる。
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ク.百年戦争とバラ戦争
■ポイント 百年戦争を通じて英仏において封建国家から主権国家への変化が始まったことを理解する。
A英仏の対立 イギリス・フランス両国には以下のような対立点があった。
- 領土問題 = フランス、毛織物工業のa フランドル地方 の支配をねらう。
→ イギリス 自国の羊毛の輸出先であるので、阻止を図る。
他にぶどう酒の産地b ギエンヌ地方 をめぐっても両国は対立。 - c 王位継承 問題 = 仏のカペー朝断絶、フィリップ6世がd ヴァロワ朝 を創始。
→ イギリスのe エドワード3世 、母がフィリップ4世の娘。フランスの王位継承権を主張。
解説
百年戦争の開始時期については両国が断絶状態になった1337年とする場合もある。1339年は実際に戦闘が始まった年。終結の年も一般にはフランスがギエンヌを奪還し戦闘が終わった1453年とされるが、両国の間で講和条約が結ばれたのは1475年である。また、この間戦争状態が続いたわけではなく、休戦期間を含み、断続的に戦われた。また戦場はすべてフランス側であったことに注意。
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B百年戦争 a 1339 年に開戦、b 1453 年まで断続的に継続。
- 1346年 クレシーの戦い イギリスの長弓隊、フランス軍を破る。
- 1356年 英c エドワード黒太子 、ポワティエの戦いで勝利。
→ フランスは北西部を奪われ、国土の荒廃すすむ。
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C農民一揆の発生 1847年からa 黒死病 が流行する。
- 貨幣経済の荘園への浸透 → 領主の農奴に対する課税強化(封建反動)。
- 仏では、1358年にb ジャックリーの乱 が起こる。(前出)
- 英では、1381年にc ワット=タイラーの乱 が起こる。(前出)
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D 戦争の長期化
- イギリスの王朝交替 1399年 a ランカスター朝 が成立。
- フランスの内乱 b ブルゴーニュ公 がイギリスと結び、
オルレアン=アルマニャック派と対立。
→ 内乱に乗じてイギリスのヘンリ5世が侵入、
アジャンクールの戦いで大勝。
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E 戦局の転換 皇太子シャルル、a オルレアン でイギリス軍に包囲される。
- 1428年 b ジャンヌ=ダルク が登場、a オルレアン の包囲を解きシャルルを救う。
→ 1429年 c シャルル7世 、ランス大聖堂で戴冠式を行う。 - 1430年、イギリス軍によってd 魔女裁判 にかけられ、ルーアンで火刑となる。
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F 百年戦争の終結
- 1453年 戦争終結。イギリス、フランス内の領地を a カレー を除き失う。
- 影響:戦争の長期化 → フランスでb 諸侯・騎士(貴族)の没落 。
→ c シャルル7世 の中央集権体制が強まる。税制の改訂、常備軍の創設が進む。
補足
<補足>百年戦争期間のヨーロッパの重要事項
- イタリアでの動き:14世紀 イタリアでルネサンスが始まる。
- ドイツでの動き:金印勅書と、領邦化の進行。
- カトリック教会の動き:大シスマと、教会批判の始まり(ウィクリフ、フス)。
- 東ヨーロッパの動き:ビザンツ帝国の衰退と滅亡(1453年)。
- イベリア半島の動き:レコンキスタの進行とポルトガルの海外進出の開始。
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Gバラ戦争 1455~85年 百年戦争に続いて起こったイギリス王位継承をめぐる内戦。
- a ランカスター家 :赤バラ b ヨーク家 :白バラ をそれぞれ紋章とする。
- 1455年 ランカスター朝の不当性を主張するヨーク家のエドワードが挙兵。1461年に即位式を強行。
= ヨーク家の リチャード3世 が王位を奪うなど混乱が続く。 - 1485年 c ヘンリ7世 が即位して終結。d テューダー朝 を開く。
e 星室庁裁判所 を設置。ウェストミンスター宮殿「星の間」に置く。国王直属の特別裁判所。
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・諸侯・騎士の没落が進み 、f 絶対王政 の基礎できる。
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ケ.スペインとポルトガル
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■ポイント イベリア半島におけるレコンキスタの経過とその意味を押さえる。
- イベリア半島 8世紀にイスラーム教徒が西ゴート王国を滅ぼしa 後ウマイヤ朝 を建てる。
Aレコンキスタ = a キリスト教徒によるイスラーム教勢力からの国土回復を目指す運動。
- ▲718年 北西部にアストゥリアス王国成立 → 11世紀 b カスティリャ王国 に発展。
9世紀 北東部にナバラ王国成立 → 11世紀 c アラゴン 成立 - 1031年 d 後ウマイヤ朝 滅亡。イスラーム勢力、小国に分裂。
- 1085年 b カスティリャ王国 、e トレド を奪回。
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Bイスラーム勢力の反撃
- 1086年 北アフリカからa ムラービト朝 が半島に侵攻。(前出)
- 12世紀 北アフリカからb ムワッヒド朝 が侵攻。
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Cレコンキスタの展開
- 1143年 a カスティリャ王国 から b ポルトガル王国 が分離。
▲1212年 a カスティリャ ・b ポルトガル ・c アラゴン の三国連合軍がイスラーム軍を破る。 - 1236年 d コルドバ を奪回、1248年 e セビリャ を奪回。
→ 1269年 ムワッヒド朝滅亡、イスラーム勢力分裂。 - 12~13世紀、カスティリャのf トレド でイスラーム文献のラテン語訳が行われる。(前出)
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Dスペイン(イスパニア)王国 の成立
解説
イザベラとフェルディナンドは「同権の国王」として共同統治を行ったが、カスティリャはアラゴンの6倍の国土を持っていたので、実質的にはアラゴンは併合されたと同じであった。二人は、カトリック信仰を共通の価値基準としていたので、「カトリック両王」と言われた。
- 1469年 カスティリャの王女a イサベル とアラゴンの王子b フェルナンド が結婚。
- 1479年 両国が合同しD スペイン(イスパニア)王国 が成立。二人は共同統治に当たる。
→ 都市と結んで封建貴族を抑え、主権国家体制を整備する。身分制議会としてc コルテス を設置。
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Eレコンキスタの完了
- a 1492 年 カスティリャ軍が、b グラナダ を占領。
= イベリア半島におけるイスラーム最後の拠点が陥落。 - この年、c コロンブス の西インド到達。海外発展を開始。
→ ユダヤ教徒、イスラーム教徒も追放される。
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Fポルトガル の発展 1415年 ジョアン1世の時、セウタを占領。
- 1431年 a エンリケ航海王子 の時、アフリカ西岸を探検開始。
→ b インド航路 の開拓、海外発展の基礎を築く。(後述) - 15世紀後半 c ジョアン2世 貴族の反乱を抑え、王権を強化。
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・16世紀 ポルトガル・スペイン全盛期、大航海時代を迎える。
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コ.ドイツ・スイス・イタリアと北欧
■ポイント ドイツ・イタリアで国家統一が遅れた事情は何かを考え、スイスと北欧諸国の成立事情を知る。
(1)ドイツ(神聖ローマ帝国)
Aイタリア政策 a 神聖ローマ皇帝がイタリア経営に熱中したため、ドイツ諸侯は自立傾向が強かった。
- 12~13世紀 b シュタウフェン朝 イタリア遠征を繰り返し、ドイツでは不在が多かった。
▲c フリードリヒ1世 (在1152~90)ロンバルディア同盟軍と戦う。第3回十字軍に参加。
▲d フリードリヒ2世 (1220~1250)両シチリア王・ドイツ王となる。ローマ教皇と対立。(後出)
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B大空位時代 神聖ローマ皇帝の不在時代が続く。- 1256年 a シュタウフェン朝 断絶後、1273年まで皇帝不在続く。
→ 外国の干渉、大諸侯の対立、自治都市の成長が進む。 - ▲1273年 b ハプスブルク家 ルドルフが帝位につくが、混乱続く。
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C金印勅書 の制定- 1356年 神聖ローマ皇帝a カール4世 が発布。=b 皇帝の選出権を7人の聖俗の諸侯に認める。
→ c 選帝侯 :マインツ、トリール、ケルン、ベーメン、ブランデンブルク、ザクセン、ファルツの諸侯。 - 意義:d 諸侯の皇帝に対する優位が確定し、ドイツの領邦による分権体制が固定化された。
解説
金印勅書によって定められた、七選帝侯。彼らは、金印勅書の付帯的な条項によって、選帝侯領は分割されず長子によって相続されること、貨幣鋳造権・関税徴収権・鉱山採掘権などが認められたこと、裁判権が強化されたことなど、大幅な特権が認められた。これによって彼らの領邦は神聖ローマ帝国内にありながら独立した国家の形態をとるようになった。
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Dハプスブルク家 の支配 a スイス から興り、次第に領地を拡大。- b オーストリア 全域を支配。c ウィーン を拠点とする。
→ 15世紀後半以降 神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)の位を独占するようになる。
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E領邦の分立 聖俗諸侯、帝国都市の代表で身分制議会のa 帝国議会 を開催したが、統一進まず。- 大小の諸侯と自由都市などの約300のb 領邦 (地方主権)に分立。
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(2)神聖ローマ帝国の周辺(スイスとイタリア)
A東方植民 の進展 十字軍時代とその後の12~15世紀 ドイツ人は盛んに東方に進出。
Bスイス の独立 13世紀以来、オーストリア(a ハプスブルク 家)から独立運動を展開した。
Cイタリア の分裂 神聖ローマ帝国の皇帝の干渉(a イタリア政策 )をうける。
- エルベ川以東のa スラブ人 とマジャール人の居住地区を圧迫しながら、諸侯国を建設。
- b ブランデンブルク辺境伯 領:12世紀に成立。後にホーエンツォレルン家領となる。
- c ドイツ騎士団領 :もと宗教騎士団。13世紀にバルト海沿岸に進出。d プロイセン の基盤となった。
- 15世紀以降のエルベ川以東 e 西ヨーロッパ向けの穀物生産が行われ、領主権と農奴制が強化される。
- 1316年 b 3州の自治権 が認められ共和政実施。州(カントン)の連合体としての結束が強まる。
- 1499年 a ハプスブルク 軍を破る。事実上の独立を達成。
→ 1648年 三十年戦争後のウェストファリア条約で独立承認される。(後述)
解説
1291年、スイスのウリ・シュヴァイツ・ウンターリンデンの三州が協力してハプスブルク家の支配からの「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点であり、8月1日は現在もスイスの建国記念日とされ、この三州は「原初三州」といわれている。1316年には皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の1388年の戦闘でもスイス側が勝利した。これで実質的な独立を実現したが、1499年にハプルブルク帝国からの分離が確定した。国際的に承認されたのが1648年である。
- 南部はb 両シチリア王国 シチリアとナポリに分裂。ノルマン人、ドイツ、フランス、スペインが進出。
- 中部にはc ローマ教皇領 が広がる。教皇自身が統治する国家となる。
- 北部はd ヴェネツィア ・e フィレンツェ ・f ジェノヴァ ・g ミラノ などの都市国家が自立。
- さらにh 教皇党(ゲルフ) とi 皇帝党(ギベリン) が対立。
→ 都市ごとに両派に分かれて争っただけでなく、各都市内部でも両派に分かれて対立した。
= j 都市の大商人は教皇党を支持、農村領主出身の貴族は皇帝党を支持する傾向があった。
補足
<補足>中世の シチリア島 と南イタリアのまとめ
- A 両シチリア王国 a ノルマン人 の地中海進出。
1130年 b ルッジェーロ2世 がイスラーム勢力を抑えシチリアとナポリ地域を支配。
= c ノルマン朝 キリスト教とイスラームが併存する独自の文化が形成される。 - B シュタウフェン朝 の支配 1194年 ドイツ王ハインリヒ6世が王位継承。
▲a フリードリヒ2世 中央集権的な官僚制を整備。首都▲b パレルモ の繁栄。
→ イタリア統一をめざし、ローマ教皇・ロンバルディア同盟などと激しく争う。第5回十字軍遠征。 - C アンジュー家 の支配 1266年 フランスのアンジュー伯シャルルがシチリアに征服。
1282年 シチリアの反フランス暴動▲a シチリアの晩祷 事件起きる。
→ スペインのアラゴン家が介入、シチリアを支配。 - D 両シチリア王国 の分離 シチリアはアラゴン家、ナポリはアンジュー家が分割支配。
=a シチリア王国 とb ナポリ王国 の分離。(1815年再統合。~1861年まで。)
(3)北欧諸国
- a デンマーク ・b スウェーデン ・c ノルウェー =北欧3国の形成が進む。
- 1397年、デンマーク女王d マルグレーテ のもとで、e カルマル同盟 を形成
→ 同君連合の王国(デンマーク連合王国)を形成。理由= f ハンザ同盟 に対抗するため。 - バルト海沿岸のg フィン人 (ウラル語系) → 13世紀以降、スウェーデンに統合される。