ロイヒリン
16世紀初め、ドイツのヒューマニスト。ヘブライ語原典から聖書を研究した。
ドイツの人文学者(ヒューマニスト)で、古典研究を進め、聖書の研究のためにヘブライ語の理解が必要であるとして、1506年、『ヘブライ語入門』を著す。これに対して保守的なカトリック神学者たちは、従来のラテン語による聖書解釈を脅かし、ユダヤ人を擁護するものと警戒し、ヘブライ語研究の自由を禁圧しようとし、1512年、ロイヒリンを異端として宗教裁判所に告発した。ロイヒリンも各地の人文学者の支持を背景に、対抗して争った。ルターの宗教改革とほぼ同時代のことであった。
ロイヒリンの聖書主義
ヨハネス=ロイヒリン(1455~1522)はプフォルツハイムの庶民の子として生まれ、創立まもないバーゼル大学で学び哲学修士の学位を取った。ついでフランスのオルレアン、ポワティエ両大学で法学を学び、ドイツに戻って弁護士となった。その後、ヴュルテンベルク伯の外交顧問としてイタリアに赴き、人文主義の大きな影響を受けた。人文学者として名声を博し、ギリシア語、ラテン語だけでなくヘブライ語を研究し『ヘブライ語入門』を著してヘブライ学の権威となった。ロイヒリンの聖書研究は、教皇を唯一の権威とするカトリック教会の理念を次第に批判し、聖書そのものへの信仰を説いて、ルターの先駆者となった。ロイヒリンの宗教裁判
このロイヒリンが宗教裁判にかけられた。訴えたのは改宗ユダヤ人だった。改宗ユダヤ人とはユダヤ教からカトリックに改宗したユダヤ人のことで、普通のカトリック教徒よりも熱心に異端告発や改宗しないユダヤ人攻撃の先頭に立っていた。告発者はロイヒリンのヘブライ語の研究はユダヤ人を擁護することになると中傷したのだ。これにユダヤ人排斥に熱心なドミニコ会が同調し、1513年、マインツの宗教裁判所で裁判となり、ロイヒリンは有罪とされた。しかし、それに対してヨーロッパ中の人文学者がロイヒリン弁護の声を上げた。エラスムスの影響を受けたフッテンもロイヒリンを弁護し、『ロイヒリンの勝利』という書物を刊行した。ロイヒリン派も反ロイヒリン派も版画入りのパンフレットを印刷して宣伝合戦を盛んに行った。この「ロイヒリン闘争」は二度目の裁判でロイヒリンが勝ったが、異端審問官が教皇に上訴したため裁判が長引き、そのうちに1517年のルターの宗教改革が始まると世間の関心はそちらに移っていった。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.99-106>