エラスムス
16世紀はじめ、オランダのヒューマニストで『愚神礼賛』を著し、カトリック教会を鋭く風刺し、宗教改革に影響を与えた。ただしルターの宗教改革の行動には批判的で論争した。

Desiderius Erasmus 1467-1536
ホルバイン筆
「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」
彼は聖書の正確な本文を確立し、老若、男女、貧富、地位、母語の相違を越えて誰でもが聖書を読み、聖書にもとづく生活をできるようにするべきだと主張した。この主張はルターの改革理念である「万人祭司主義」を先取りしているといえる。「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」と言われるほど、ルターやツヴィングリの宗教改革の先駆となったが、彼自身はルターの宗教改革にも批判的で、新旧両派から距離を置いた。Episode 佐野で見つかった「エラスムス像」
栃木県佐野市の竜江院というお寺に「貨狄(かてき)像」として伝えられた西洋人の風貌をした木彫が残されている。この像の姿から寺付近では「小豆とぎ婆々」という民話も生まれた。昭和5年に調査したところ、右手に垂れ下がっている巻物に「ER(AS)MVSR(OT)TE(RDA)M1598」の文字が認められ、オランダのロッテルダムで1598年に作られたエラスムス像であることが判った。 → オランダと日本なぜエラスムス像が栃木県の佐野ににあるのかというと、もともとこの木像は、1600年に大分に漂着したオランダ船リーフデ号の船尾に取りつけられていたもので、リーフデ号は前名をエラスムス号といっていたのだった。乗組員ヤン=ヨーステン、ウィリアム=アダムスが江戸幕府に仕え家康の外交顧問になったことはよく知られているが、この木像はその後、旗本の牧野家が管理し、その知行地であった佐野の羽田村の菩提寺竜江院に寄進されたものであったのだ。
エラスムスの故郷オランダからは最古の木彫美術品で歴史的な遺品なので返還要求があったが丁重に断り、国宝に指定され、現在は東京国立博物館に保管されている(現在は法改正で重要文化財)。東京国立博物館では常時展示ではないが、佐野市郷土博物館には複製品が常設展示されている。16世紀末に日本とオランダを結びつけた証拠となる貴重な遺品だ。 → 佐野市ホームページ
「エラスミスム」
宗教改革とヒューマニズム、人文主義に大きな影響を与えたエラスムスの思想を、エラスムス主義といった意味で「エラスミスム」と言うこともある。エラスミスムはエラスムスの主著『痴愚神礼賛』でカトリック教会に対する嘲笑の言葉で語られながら、近代思想の一つの原点ともされている。その一方、エラスムスはカトリックを批判したけれども生涯カトリック信仰を捨てなかったし、プロテスタントの宗教的情熱が暴力に走ることにも強く反対していた。その点から、ルターはエラスムスを批判したが、エラスムス思想-エラスミスム-にたいする批判はその後も続いた。エラスムスの思想と、エラスミスムに対する批判について論じた渡辺一夫の文章が今も参考になる。
(引用)エラスムスが、『痴愚神礼讃』で主張していることは、キリストの福音を歪曲するものの排除であり、真の福音の探求と実践であった。かるが故に福音を歪曲していたカトリック教会内の姑息怠惰な修道士や神学者は狼狽し、エラスムスの清新穏当な考えを危険視した。その間、ルッター派はエラスムスを自らの陣営に引きこうもうとした。しかし、異なった人間観や世界観が、生きた人間たちの肉体に宿る時、そして、一ほうを宿した肉体が他ほうを宿した肉体を屈服せしめ、それが屈服せぬ限りはその生命をも脅かそうとする時、そして、この対抗を現世の権力が操るとき、思想交流交代という人間のみに与えられた高貴な真理探究の共同作業も、戦乱・殺人・拷問・暗殺の形でしか現れざるを得なかった。このみじめた人間的条件への反省と、その浄化解決とを希うことが、福音の一つと信じていたエラスムスは新旧両派の血みどろな衝突をあくまで否定し、いずれかの側に助力を与えれば自らの否定する闘争を肯定することになると考えた以上、いずれにも属さず、その態度は曖昧であり「わたしは一人でいたい」と自らも言い、他人からは、「エラスムスは加わらずに、一人きりでいる」と半ば揶揄的な評言さえ与えられたのである。<渡渡辺一夫『狂気について』1993 岩波文庫 p.102>