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宗教改革

16世紀、ローマ=カトリック教会を批判したルターに始まるキリスト教の改革運動。1517年のドイツのルターの登場に始まるが、スイスやフランスのカルヴァンの活動など、西ヨーロッパ全域に広がり、封建社会の崩壊という社会変革と結びついて広がった。ローマ教皇=カトリック教会側も宗教改革に対抗する動きを強め、ヨーロッパのキリスト教世界を二分する新旧両派の激しい宗教戦争を巻き起こした。

 The Reformation 16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教世界をカトリック教会プロテスタントに二分することとなり、同時に社会と政治の変動をもたらした大きな変革が宗教改革である。イギリス宗教改革イギリス国教会のカトリックからの離反と言うかたちで行われた。
 宗教改革はヨーロッパの精神世界と政治世界においても最高権威であったローマ教皇を頂点とした教会支配を脅かすものであったので、その動きに対抗して、カトリック教会でも対抗宗教改革が試みられ、大きく変化した。またほぼ同時期に展開されていたルネサンス大航海時代との密接に結びつき、ヨーロッパ世界の近代への移行を準備したと言うこともできる。宗教改革から始まった新旧二派の対立は、深刻かつ広範囲な宗教戦争に転化し、ほぼ17世紀まで続くこととなる。この宗教戦争を経ることによりヨーロッパには主権国家が形成されていく。 → 1517年という年 「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」

ルターの宗教改革とその広がり

 ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対してルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことから宗教改革が始まった。
 ルターは「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)と説き、その理念はローマ教会の「信仰と善行によって救済される」という教義とするどく対立することとなり、ドイツは大きな混乱に巻き込まれた。時の神聖ローマ皇帝カール5世1521年ヴォルムス帝国議会でルターに教義撤回を迫ったが拒否されたため、ヴォルムス勅令を発してルターを異端と断定、追放に処した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖書のドイツ語訳を完成させ、『聖書』やルターの主著『キリスト者の自由』は活版印刷によって民衆の間に新しい宗教観を浸透させることとなった。

リフォームとリフォーメーション

 日本で定着している「宗教改革」という世界史用語については次のような説明がある。
(引用)日本語の「宗教改革」は”Reformation”の訳語としては適切ではない。この言葉は「再び」を意味する”Re”と「形成する、構成する」という意味の"Formation"から成る。つまり「再び形を整える」とか「再形成する」という意味であり、「宗教」や「改革」という意味は入っていない。それを「宗教改革」と意訳してしまったことは、この出来事の解釈において誤解を生む原因の一つになっている。<ルター/深井智朗訳『宗教改革三大文書』2017 講談社学術文庫 深井氏による解説 p.429>
 ドイツの神学者ヴィルフガング・パネンベルクは「Reformation とは何か」と問われたとき、「リフォーム」と「リフォーメーション」は違う、と説いて「リフォームというのは主として内部の装飾の修理や変更ですが、リフォーメーションというのは土台、つまり基礎工事部分だけを残して、上に立っているすべての建物を新しく作り直すことです」と述べている。
(引用)つまり、キリスト教である以上、聖書と、イエスこそが人類の救済者であるという土台は変わっていないが、その土台の上に建てられた教会制度や教え、つまりすでに数百年にわたって西ヨーロッパを支配してきたカトリック教会の伝統は徹底的に、完全にリフォームされたということである。しかし、私たちの住む家は同じ家なのである。1520年のルターの著作(『キリスト者の自由』など)は、この土台の確認、あるいは彼が考えた再建案のグランド・デザインと言ってよいであろう。<同上書 p.430>

農民戦争と宗教戦争

 こうして宗教改革はドイツ国内でキリスト教信仰をめぐる対立として始まったが、封建末期の矛盾が強まる中で没落しつつあった騎士階級であるフッテンはルターに同調して騎士戦争(1522年)を起こしたが大領主たちに鎮圧された。また、教会から搾取されてローマの牝牛とさえ言われていたドイツ農民がルターを支持して蜂起し、1524年にはトマス=ミュンツァーを指導者とする農民一揆がドイツ農民戦争として勃発した。こうして宗教改革は反封建闘争という社会改革と結びつくこととなったが、ルターは結局これらの武装闘争には反対した。そのため農民闘争はいずれも鎮圧された。
 宗教改革の時代背景には、神聖ローマ皇帝とフランス王の対立であるイタリア戦争オスマン帝国のバルカン進出・地中海への進出というヨーロッパ全体の危機があり、それらにくわえ教皇と皇帝の対立、諸侯同志の対立などが複雑に絡み合って、単なる宗教上の問題を超えて政治的な駆け引きも行われた。カール5世も1526年シュパイアー帝国議会(第1回)ではルター派の諸侯の協力を得るため、その信仰を認めたが、イタリア戦争の戦況が好転すると1529年の第二回では一転してルター派を否認した。これに対してルター派諸侯・都市は結束して皇帝に抗議したので、彼らは抗議する者=プロテスタントといわれるようになった。ローマ教皇とカトリック教会を支持する諸侯も結束し、新旧両派諸侯はシュマルカルデン戦争(1546~47年)という宗教戦争を戦うこととなった。

宗教和議の成立

 ドイツにおいては、ようやく1555年アウクスブルクの和議で両派の和議が成立し、新教の信仰が公認されるに至った。これがドイツにおける宗教改革の一応の終結と言うことができるが、しかしそれは「領主の宗教、その地で行われる」と言われたとおり、信仰の自由は領主層に限られてており、農民レベルは領主の信仰に従わなければならなかった。そのため、ドイツにおける宗教対立はその後も続き、17世紀前半の三十年戦争となり、その講和条約である1648年ウェストファリア条約でアウクスブルクの和議が確認され、カルヴァン派も含めて信仰の自由が認められ、宗教戦争は終わった時点までをドイツの宗教改革とする見方もできる。その後は、北ドイツ及び北欧諸国はプロテスタント、ドイツ南部ではカトリックがそれぞれ優位な状態が続く。

カルヴァンの宗教改革とその広がり

 ルターと同じころ、スイスチューリヒではツヴィングリが現れ、より徹底した改革がおこなわれたがカトリック側との内戦となりツヴィングリが戦死してこの改革は頓挫した。ついでフランス人でルターの思想の影響を受けて改革を称えて追放され、スイスのジュネーヴに逃れてきたカルヴァンが活動を開始した。彼はジュネーブ市民の支持を受けて徹底した神権政治を展開した。彼が説いた予定説はフランス、オランダ、イギリスなどの商工業者にひろがり、各地でカトリック教会との対立をもたらした。

フランスの宗教戦争

 特にフランスでの宗教戦争は16世紀後半のユグノー戦争(1532~98年)として展開され、その過程で激しい新教徒虐殺なども行われた。その対立は1598年、アンリ4世がカトリックに転じると共にナントの王令を出してプロテスタントの信仰を認めるまで続いた。フランスではその後、1685年にルイ14世がナントの王令を廃止してカトリックを事実上の国教と定めたため、多くのプロテスタントが国外に逃れて、強固なカトリック国となった。また隣接する現在のベルギーはカトリックが、オランダはプロテスタントがそれぞれ優位となった。

イギリスの宗教改革

 一方、イギリスでは同じく16世紀前半に国王ヘンリ8世の王妃離婚問題から端を発してローマ教会と絶縁して独自のイギリス国教会を樹立するという宗教改革が行われた。イギリス国教会はローマ教皇から分離し、教義はカルヴァン派などの要素を取り入れたが、教会の儀礼ではカトリック的な面を残していた。またイギリスではその後、カトリック勢力も勢いを盛り返し、しばらくは国教会と激しい対立が続いたが、エリザベス1世の時に統一法などが成立してほぼ国教会の優位が出来上がり、同時に絶対王政の支配体制を成立させた。またカルヴァン派はスコットランドの長老派、イングランドではピューリタンと言われ、次の17世紀のピューリタン革命の中心勢力となった。またカトリック教会はイギリスの植民地であったアイルランドではその後も優勢を保った。 → イギリスの宗教改革

対抗宗教改革

 カトリック教会側でも新教に対抗してローマ教会の改革と、教皇の権威をの回復をはかり、勢力を挽回しようする運動が起こった。1545年トリエント公会議で教会の刷新と共に、禁書目録を作成、さらに宗教裁判所を強化して新教勢力に対抗しようとした。この動きを対抗宗教改革(または反宗教改革)と言う。レコンキスタを経験して、強いカトリック信仰が継承されていたスペインで特にその運動が盛んで、1534年イグナティウス=ロヨラらはイエズス会を結成、教皇への絶対的な服従と、ラテンアメリカやアフリカ、アジアという新天地に積極的に布教活動を展開した。その運動によって、カトリックはラテンアメリカやフィリピンでスペインの植民地支配と結びついて根をおろし、世界的な広がりをもつ宗教となった。

1517年という年

 ルターがヴィッテンベルク教会の門に『九十五ヶ条の論題』を張りだし、宗教改革を開始した1517年、ヨーロッパはルネサンスのうねりがまだ強く残っており、また大航海時代の幕がきって落とされた直後であった。政治的にはイタリア支配をめぐって、フランスと神聖ローマ帝国が争うというイタリア戦争が展開中であった。またヨーロッパの東方、バルカン半島と東地中海には、イスラーム教国オスマン帝国の脅威が迫っていた。そのオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしたも同じ1517年である。なお、中国は明の後半にさしかかり、日本は室町幕府が弱体化し戦国時代のさなかにあった時期である。

News 宗教改革500年

 2017年は、ルターヴィッテンベルク城門に「九十五ヶ条の論題」と張り出してから、500年目に当たる。ルターが論題を張り出したとされる10月31日には、宗教改革500年を記念する行事が各地で行われたが、ヴィッテンベルクでは、縁の教会でプロテスタントの牧師とカトリックの神父が合同で礼拝をし、両宗派の対立を克服し、その絆を深めようと試みられた。ドイツ国内外から1500人の信者が集まり、カトリックのゲアハルト=ファイゲ神父は「今年は和解に向けた大きな突破口となる。キリスト教徒は、難民問題などの不正義を前にして沈黙しているわけにはいかない」と世界の課題に協力して取り組む必要性を訴えた。プロテスタントを代表して中部ドイツ福音主義教会監督のイルゼ=ユンカーマン牧師は「合同礼拝を開けたのはお互いの信頼が深まっていることの証拠だ」と語った。<朝日新聞 2017年11月1日>

宗教改革と人文主義

 ルターの宗教改革はヨーロッパの思想全体にも大きな衝撃となったが、同時代のルネサンスの中で、マキァヴェリの『君主論』(1513年執筆)、トマス=モアの『ユートピア』(1516年刊行)がほぼ同時であることに注目しておこう。他にもエラスムスロイヒリンなどの人文学者が活躍していた時代である。特に、ルターの宗教改革に先行してヒューマニズム(人文主義)の思想が展開されていたことは重要である。ヒューマニズムはギリシアやローマの古典文学などを学ぶことによって、被造物(神に作られた)として人間ではなく、人間本来の感情や肉体を見直して、人間本来の姿を生き返らせようとする思想であった。必ずしもキリスト教その者を否定する運動ではなかったが、古典としての聖書研究は、聖書よりもローマ教皇の権威を絶対視する当時の教会のあり方に対する批判となったので、教会と人文学者はたびたび対立した。ルターの宗教改革の直前に起こったロイヒリンの裁判などもその例である。

「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」

神の水車
森田安一『ルターの首引き猫』p.39
 人文主義の中でルターの宗教改革に大きな影響を与えたのがエラスムスの聖書研究であった。エラスムスの思想がルターの聖書中心主義を生み出したという理解は当時の民衆に共通であったので、「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」とさえ言われ、エラスムスの影響は大きいと考えられていた。そのことをよく示すのが、当時発行されたビラに描かれた寓意画である。右に示す図は「神の水車」と題された1521年にスイスのチューリヒで出版されたパンフレットの挿絵であるが、そこには水車でひかれた粉からパンができるまでに託して、宗教改革の意義を説いている。まず左上の神の恩寵として流された水によって水車がまわり、イエス=キリスト(a)が粉ひき職人として袋から小麦を注ぎい入れている。小麦は動物の姿をしているが、これはマタイ(人)、マルコ(ライオン)、ルカ(雄牛)、ヨハネ(鷲)、パウロ(剣を持つ人)をそれぞれ象徴しており、聖書を意味している。製粉職人の助手として働いているのがエラスムス(b)で、製粉機から出てきた粉を粉袋に入れている。その後ろで袖まくりしてパン粉をこねているのがルター(c)。出来上がったパンは聖書として描かれ、中央の人物から右手の聖職者に渡されようとしているが、かれらはそれを手に取ろうとせず、聖書は落ちていく。聖職者は枢機卿や司教、修道士などで右側に描かれたのがローマ教皇である。この中央の人物には名前が記されていないが、チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ(d)であろうと推定されている。その上で農民(カルストハンス)が大きな「からさお」をふりまわし、聖職者たちを撃とうとしている。またかれらの頭上には不気味な翼竜が「バン・バン」(ドイツ語でバンは破門の意味)と鳴いている。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.38-84>
 ただし、エラスムス自身は、『愚神礼讃』等の著作を通じて、ローマ教会とカトリック教会の古い体質を批判していたが、ルターの急進的な改革には否定的であった。彼自身はルターに影響を与えたとは考えておらず、ローマ教皇の権威そのものを否定したわけではなかった。彼の立場は、同時期にイギリスでローマ教会から分離しようとしていた国王ヘンリ8世を批判したトマス=モアに近いものであった。