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労働問題

産業革命によって成立した資本主義社会において、労働者の無権利状態からくるさまざまな問題。

 産業革命の進行によって資本家と労働者の関係という資本主義社会の基本的な関係が成立した。資本家は利潤を追求するため、労働者に対し、長時間の低賃金労働を求めた(つまり労働力という商品を安く買おうとする)し、労働者は短時間で高い賃金を得ようとする(つまり労働力という商品を高く売ろうとする)ので、その利害は相容れない。資本主義社会の初期には圧倒的に資本家(雇用者側)が有利であり、労働者(被雇用者)側には対抗する手段が無く、労働者の権利を保護する観点も具体的な法律も存在しなかったので、過酷な条件でも受け入れざるを得なかった。そのような中で労働者の貧困はその生命や健康をむしばんでいった。資本家は、より従順に低賃金でも労働する女性や子供を労働力として使うことが増え、悲惨な労働実態が工業都市で蔓延した。特に炭坑では狭い坑道で女性や子供が酷使されていた。教育の機会がないために能力を発揮することも出来ず、参政権もなかったので政治に訴える道も閉ざされ、社会不安が増大した。ロンドン、バーミンガム、マンチェスターなどの大都市には、スラム街(貧民街)が生まれ、不衛生な環境に多数の労働者家族が生活する状態であった。そのような問題の解決をめざして、労働者が団結して資本家と対等な交渉を要求する労働組合が生まれ、また労働者の地位の向上や解放を目ざす社会主義の思想も生まれてくる。

アシュトンの産業革命の評価

 産業革命の技術的・経済的変革そのものが社会的な惨禍の源泉であったという「産業革命の不幸」論に対して、アシュトンは『産業革命』(1947)の結論部分で次のように反論している。
(引用)この時代の中心問題は、それ以前の時代よりも遙かに多くなった幾世代かの児童を、いかにして食べさせ、着せ、雇傭するかということであった。アイルランドもそれと同じ問題に直面していた。そしてこの問題を解きえなかったアイルランドは、四〇年代にその国民の五分の一を移民と飢餓と疾病とで失った。もしイングランドが、耕作農民と手工業者の国にとどまっていたならば、イングランドもまず同じ運命をまぬがれなかったであろうし、またうまくいっても、増大する人口の重みがイングランドの活力の源泉を圧しつぶしてしまったに違いない。英国が救われたのは、その支配者によってではなく、疑いもなく、新しい生産器具と新しい工業経営方式を発明するだけの機知と資金とを持ち、自分自身の当面の目的を追求していた人々によってであった。・・・<アシュトン『産業革命』1947 中川敬一郎訳 岩波文庫 p.178>
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