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ネルソン

イギリス海軍の提督。ナポレオンのフランス海軍を1805年のトラファルガー海戦で破ったが、戦死した。

ネルソン
Horatio Nelson
1758-1805
 ナポレオンのフランス海軍と戦ったイギリス海軍の提督。1798年にはエジプト遠征中のナポレオン海軍をアブキール湾の海戦で奇襲作戦を敢行して破り、名声を上げた。1805年10月21日のトラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破ったが、自らは戦死した。その海戦に際して、兵士に対し England expects every man to do his duty. (イギリスは各人がその本分を尽くすことを期待する)と呼びかけたことは有名。

Episode 英雄のスキャンダル

 1798年、ネルソンはアブキール湾の戦いでナポレオン海軍を破ったあと、傷を癒すためナポリに赴いた。ナポリ王国のフェルナンド4世の王妃マリア=カロリーナはオーストリアのマリア=テレジアの娘、つまりマリ=アントワネットの実の姉でフランスに敵愾心を抱いていたので、ネルソンは歓迎され、ナポリの海を一望できるイギリス大使ハミルトン卿の邸宅で治療することとなった。彼は1794年のコルシカ島のカルヴィの戦いで右目を失い、97年にはテネリフの海戦で右腕を失い、またまた大けがをしたのだ。この隻眼隻手の英雄をハミルトン夫人エンマは、熱心に看病した。ネルソンには本国に妻がいたし、エンマはイギリス大使夫人だから、二人の恋は道ならぬものであった。おまけにエンマの評判はたいへん悪かった。と言うのは彼女はイギリスの貧しい鍛冶屋の娘で、ただ美しかったというだけで、数々の男性遍歴を重ね、26歳の時に60歳の貴族ハミルトン卿の夫人に収まっていたからだった。しかし、エンマの看病で傷をいやしたネルソンは、その愛を受け容れる。1800年、イギリスに戻ったネルソンにはエンマが付き添い、お腹にはその子を宿していた。ロンドンではネルソンは英雄として迎えられたが、エンマは好奇心と非難の目でさらされ、新聞には風刺絵が掲載された。ネルソンはエンマのために屋敷を買い、しばらく二人で幸福に暮らしたが、1804年からネルソンは再び地中海防衛の任務に就き、翌年のトラファルガー海戦でイギリス海軍を勝利に導きながら、自らは砲弾にあたって戦死し、エンマとその間に生まれた娘ホレーシアとは永遠の別れとなった。<高階秀爾『歴史のなかの女たち』1978 文芸春秋社 2008 岩波現代文庫で再刊 p.287-299>

映画 『美女ありき』

 『風と共に去りぬ』で大女優となったヴィヴィアン=リーがまだ若い、売り出し中の1941年に公開された映画。ネルソン提督とエンマ=ハミルトンの歴史上有名なスキャンダルを、ほぼ忠実に(と思われる)映画化している。トラファルガー海戦のシーンなど、現在から見れば安っぽいが、名優二人による歴史物語としては興味深く見ることができる。特に冒頭は意外性があって面白く、文芸映画風に仕上がっている。なお、ヴィヴィアン=リーとローレンス=オリヴィエも実生活で不倫関係にあり、ついに結婚に漕ぎ着けているので、当時は大変な話題になった映画だった。
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書籍案内

高階秀爾
『歴史のなかの女たち』
2008 岩波現代文庫
DVD案内

ヴィヴィアン=リー
ローレンス=オリヴィエ
『美女ありき』
監督 A=コルダ 1941