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ナポレオンのエジプト遠征

1798年、ナポレオンがイギリスに打撃を与えるために敢行した遠征。7月にアレクサンドリアを占領。イギリス軍にはアブキール湾の戦いで敗れる。オスマン帝国支配下のエジプトには民族運動の発生など大きな影響を与えた。

 イタリア遠征から凱旋した、わずか29歳の青年将軍ナポレオンは、1798年春、タレーランの示唆に従ってエジプト遠征を総裁政府に提唱した。これは「インドへの道」を断ち切り、イギリス経済に打撃を加え、フランスがアンティーユ諸島で失いつつある植民地の替わりを獲得しようとしたものである。トゥーロンからブリュエ提督指揮の艦隊で出発。目的地がエジプトだと知るものはほとんど無く、ネルソン艦隊も東地中海にあったので、出帆を阻止できなかった。
 6月10日、マルタ島に上陸、マルタ騎士団団長ホンペッシュは降伏。フランス共和国に島を30万フランの年金と引換に譲渡。ナポレオンは人権宣言の原則を実施するため、そしてイスラーム諸国の受けを良くするため、マグレブ地方の2000人の奴隷を解放した。1798年7月1日、アレクサンドリアに上陸して占領し、オスマン帝国の太守の支配下にあるマムルークを主体としたオスマン軍を破り(ピラミッドの戦い)、カイロに入城した。しかしアブキール湾ネルソンの率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受けたため、ナポレオンはしばらくエジプトに釘付けになった。

Episode エジプト4000年の歴史が見ている・・・

 ナポレオンがエジプト遠征でピラミッドの戦いの際に、「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」と呼びかけたというのも有名な話になっている。
 はじめてピラミッドを目にしたフランスの兵士は「驚きのあまり、眼をみはったまま讃歎する余裕さえなかった」が、まもなくエジプト騎兵隊(マムルーク)と一戦交えなければならない現実が待っていた。「ピラミッドの戦い」は熾烈であったが、フランス軍の小銃連隊によってエジプト軍は一掃され、7月25日、ナポレオンはカイロに入城した。
(引用)・・・ナポレオンは陸戦の勝利を得た。しかし勝利よりも苦難のほうが、飢餓や疫病のほうが多く、多数のひとびとがエジプト特有の眼病にかかって失明した。この眼病はまるで影のようにどの軍隊にもつきまとったので、学名をオフタルミア・ミリタリス(軍隊眼炎)と命名された。<ツェーラム/村田数之亮訳『神・墓・学者』1962 中央公論社 p.97>

アブキール湾の海戦

 1798年8月、ナポレオン率いるフランス艦隊が、ナイル河口のアブキール湾内に停泊中、ネルソン提督の率いるイギリス海軍が急襲しほとんど全滅させ、ネルソン提督の名声を一段と高めた。この敗戦のためナポレオンはエジプトに釘付けとなり、翌年ようやく脱出できた。しかしその後も地中海の制海権はイギリスに握られ、海上ではトラファルガー海戦で再び敗れることとなる。

ナポレオンの帰国

 この間、総裁政府は動揺が続き、さらに1798年末までにイギリス・ロシア・オーストリア・オスマン帝国などの第2回対仏大同盟が結成される情勢となった。1799年3月にはシリアに進出してオスマン帝国軍と戦ったが、強い抵抗を受けてカイロに戻る。ナポレオン軍がエジプトに足止めされている間、北イタリアではフランス軍が敗れ、危機的な状況となったため、同年10月にナポレオンは密かにエジプトを脱出してパリに戻り、ブリュメール18日のクーデタで政権を握る。エジプトに残されたフランス軍は、1801年9月、アレクサンドリアでイギリスに降伏した。

エジプトへの影響

 ナポレオンが遠征した時期のエジプトは、トルコ人のイスラーム国家であるオスマン帝国の支配下にあり、エジプト総督(太守)がそこを統治していたが、実権は前代から続くマムルークが知事(ベイ)として分立し、まとまりがなかった。そのような状態でナポレオンの侵入を受けた時、オスマン帝国はそれを排除するために、アルバニア人傭兵部隊を率いたムハンマド=アリーを派遣した。ナポレオン軍はイギリス軍に敗れ撤退したが、これによってエジプトとしての民族意識が芽生えることとなった。この機に台頭したムハンマド=アリは、エジプト総督の地位についてオスマン帝国からの事実上の独立した政権を樹立し、ムハンマド=アリー朝となる。

ロゼッタ=ストーンの発見

 ナポレオンはエジプト遠征の際、多くの学者を伴っていた。学術遠征とも言えるこのとき、1799年7月に一兵士によってアレクサンドリア近郊の砂漠の中からロゼッタ=ストーンの発見という副産物を生んだ(ロゼッタは現地ではラーシード)。ロゼッタ=ストーンは現地のフランス軍がイギリス軍に降伏したため、イギリス軍の手に渡り、現在は大英博物館に保管されている。

Episode ナポレオンのエジプト大学術調査団

 わずか29歳の青年将軍ナポレオンが総司令官として指揮を執ったエジプト遠征軍は、13隻の戦艦、7隻のフリゲート艦とコルヴェット艦、37隻の軽装艦、27隻の輸送船に5万4千の人員、1200等の馬、171門の砲の他に175名の学術調査団を乗せいていた。調査団は、さまざまな分野に及ぶ第一級の人物で構成されていた。その分野は、天文学、幾何学、化学、物理学、機会、建築、地理、造船、動物、植物、医学、薬学、美術、音楽、文学、経済、印刷に及び、専門のオリエント学者も含まれていた。この中には、初めて本格的にスエズ地峡を調査し、後にスエズ運河建設の技術責任者になる技師ルペールもいた。ナポレオンは、スエズ地峡に運河を建設することを考えており、実際そのための調査もオスマン軍との戦闘の合間を縫って行われ、ナポレオン自身が古代エジプト時代の運河の跡を発見したと言われている。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮選書 p.117,p.129-132>
 ロゼッタ=ストーンを発見したのは一兵士であるが、それがヒエログリフの解読につながったのは偶然ではなかったのだ。
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