エルバ島
1814年、退位したナポレオンが流された地中海の島。翌年2月には脱出し、パリに向かった。現在はイタリア領。
エルバ島の位置 YahooMap
世界的に注目されたのは、1814年に退位したナポレオンが最初に流された島であったことである。
ナポレオンの配流
1813年10月16日にライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンを追って、ロシア軍・プロイセン軍はパリを目指し、1814年3月末、ついにパリは陥落した。ナポレオンは軍勢とともにパリ南郊のフォンテーヌブロー宮に逃れた。彼はまだ諦めておらず、兵士の間からも「パリへ」という声も上がった。しかし、パリではすでに変わり身の早い政治家たちが動き、ナポレオン退位、ブルボン家の王位復活に向けて策動が進んでいた。その中心にいたのはタレーランであった。1814年4月2日、元老院は皇帝ナポレオンの退位を宣言し、6日にはルイ18世の即位を決定、王政復古となった。ナポレオンは、4月4日に条件として地中海のエルバ島の所有(支配権)と歳費の支給を同盟国側から出させることを認められて、自ら退位に同意して調印するしかなかった。4月20日、すすり泣く兵士を後に、フォンテーヌブローを出発したナポレオンはエルバ島に向かった。エルバ島は所領として与えられたとはいえ、事実上の流刑地であった。コルシカ島の東50キロ、面積は220キロ平方、三つの小さな村落があり、ポルト-フェラヨが港のある中心地であった。
ナポレオンの脱出
ナポレオンは配流と言っても、監禁されたわけではなく、この島の所有者として、道路を造ったり、鉱山を探したり、狩をしたり自由な生活を送ることことができた。ナポレオンは単調な生活に次第に飽きてきたようだ。ナポレオン後のヨーロッパ国際秩序の再建のために始まったウィーン会議は一向に進展せず、フランス国内ではルイ18世の復古王政で戻ってきた亡命貴族が幅をきかし、ブルジョワの中には革命の成果が帳消しにされてしまうのではないか、農民の中には革命前の身分制度が復活するのではないかという不安が広がり、またナポレオンのもとで戦った兵士は解雇されて生活に困り、ナポレオン復活を待望する気運が強まっていった。
1815年2月26日、ナポレオンは千名足らずの兵をつれてエルバ島のポルト-フェラヨを出発、3月1日にカンヌとアンティブ両市のあるサン-ジョアン湾に上陸した。そこからわずか20日間でパリに駆けつけることになる。王党派の襲撃を避けて迂回路をとったが、道々、農民や労働者が「皇帝万歳」と歓呼して迎えた。