タレーラン
フランスの政治家。フランス革命期からナポレオン時代、復古王政期に活躍。ウィーン会議ではフランス代表として正統主義を提唱した。
タレーラン(正式にはタレイラン=ペリゴール) Talleyrand-Périgord 1754-1838 はフランス革命・ナポレオン時代・復古王政・七月王政の激動期に、消えては現れる、「クセ者的な政治家」だった。下級貴族で軍人の家に生まれたが足が悪かったので僧侶となり、1789年の三部会では聖職者の代表のひとりとして参加した。立法議会の時期には外交官してイギリス・アメリカに渡り、外交交渉に当たったが、立憲君主派であったのでジロンド派、ジャコバン派とは意見が合わず、海外亡命同然の状態となった。ジャコバン派が倒された後の1796年にフランスに戻り、総裁政府の外相となった。1799年、外相を辞任してナポレオンを支持し、ブリュメール18日のクーデタでその権力掌握を助け、その功績でナポレオン政権のもとで再び外相となった。1808年以降はナポレオンの侵略主義に反対して遠ざけられ、ナポレオン没落後、ルイ18世の復古王政が実現すると、迎えられて外相となり、ウィーン会議ではフランスの代表として正統主義の原則を提唱した。ナポレオンの百日天下の後、一時首相を務めた。ずっと後の1830年の七月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、駐英大使を勤め、5年後80歳で隠退した。それぞれの時期でのタレーランの重要な動きを見てみよう。
・フイヤン派として 1791年憲法で立憲君主政が実現、立法議会が成立するとタレイランはフイヤン派の論客としてジロンド派と対立した。ジロンド派が対外戦争をあおるなか、親英的であったタレイランはたびたびイギリスに渡り外交折衝を重ねる。しかし92年の8月10日事件でフイヤン派は勢力を失い、同年9月からイギリスでの亡命生活が始まる。しかし、93年、ルイ16世の処刑を理由にイギリスが対仏大同盟を結成して断交したため、ピットによってイギリスを追われ、アメリカに渡った。
・総裁政府の実力者として 1794年7月、テルミドールのクーデタでジャコバン派が没落、代わって総裁政府が成立すると、タレイランも亡命から戻る。総裁バラスに取り入り、女友達スタール夫人(ネッケルの娘)の口利きで外務大臣になる(97年)。
老タレイラン
ダフ・クーパー『タレイラン評伝』p.385
外務大臣時代のタレイランは、後に歴史を塗り替えることとなる一人の青年と知り合った。それが、一青年士官にすぎなかったナポレオンであった。彼はナポレオンの軍人としての才能を知り、彼をバラスに紹介、さらにエジプト遠征を吹きかけ、ナポレオンが世に出るきっかけを作ったのだった。
・ナポレオンのもとで 1799年、ナポレオンがブリュメール18日のクーデタで権力を握り、統領政府が成立すると一時退いていた外務大臣に復帰、さらにナポレオンが皇帝となってからもその下で外交交渉に当たった。しかし1807年、フーシェとともに陰謀の容疑でナポレオンの怒りをかい、政権を離れた。
・復古王政で復活 1814年、ナポレオンが退位してブルボン朝ルイ18世が復古王政を始めるとタレイランも外務大臣に復活。ウィーン会議では正統主義の原則を提唱して、会議の道筋をつけた。ナポレオンの百日天下の時期はパリを離れたが、ワーテルローの戦いの後に国王とともにパリに戻り、15年7月、今度は総理大臣となった。しかしすでに60を超え、その後の活動は衰え、別荘で静かに暮らすことが多くなった。
・ルイ=フィリップを担ぎ出す 復古王政のルイ18世、シャルル10世が絶対王政に戻そうとして次第に議会と国民から離れていくと、タレイランは立憲君主主義者としての原点に返ったのか、議会つまりブルジョワと協調できる開明的な国王としてオルレアン家のルイ=フィリップに期待し、その担ぎ出しに一役買う。その功績で1830年、七月革命が成功し、七月王政が成立すると、タレイランは75歳で駐英大使に任命された。そして5年後の80歳で引退し、1835年、84歳で死去した。<ダフ・クーパー/曽村保信訳『タレイラン評伝』1963 中央公論社 後に中公文庫に上下で収録 ダフ・クーパーは戦前のイギリスの外交官・政治家としても著名な人だった。>
息の長い政治家 タレーラン
・改革派聖職者として フランスでは貴族の子弟が名誉と金銭を得る途は、軍人か聖職者(僧侶)になるしかなかった。いわゆる「赤と黒」(スタンダール)である。タレイランも貴族の出で、父は軍人であった。しかし彼が聖職者になったのは、子供のころの事故で片脚が不自由になったためである。神学校とソルボンヌで学んで聖職者となり、オータンの司教に任じられた。1789年、三部会が招集されると、オータンの聖職者代表として選出され、第一身分に属しながら国民議会の設立に賛同した。国民議会は最も重要な財政問題の解決に苦慮していたが、タレーランは聖職者でありながら、教会財産の国有化を提案し、改革派の聖職者としてにわかに脚光を浴びた。さらに1790年には聖職者基本法に賛成し、みずから司教職を返上し、国家への服従を宣誓した。・フイヤン派として 1791年憲法で立憲君主政が実現、立法議会が成立するとタレイランはフイヤン派の論客としてジロンド派と対立した。ジロンド派が対外戦争をあおるなか、親英的であったタレイランはたびたびイギリスに渡り外交折衝を重ねる。しかし92年の8月10日事件でフイヤン派は勢力を失い、同年9月からイギリスでの亡命生活が始まる。しかし、93年、ルイ16世の処刑を理由にイギリスが対仏大同盟を結成して断交したため、ピットによってイギリスを追われ、アメリカに渡った。
・総裁政府の実力者として 1794年7月、テルミドールのクーデタでジャコバン派が没落、代わって総裁政府が成立すると、タレイランも亡命から戻る。総裁バラスに取り入り、女友達スタール夫人(ネッケルの娘)の口利きで外務大臣になる(97年)。
Episode XYZ事件と隠し子疑惑
このとき、XYZ事件という不祥事が起きている。これは1797年10月、アメリカ大統領アダムズがフランスとの関係を改善しようと3人の使節を送ると、外務大臣タレーランの代理人と称する人物が賄賂を要求した。3人は彼らに近づいた代理人をXYZの匿名で本国に通知したところ、それが漏れてアメリカ国内で反フランス感情が盛り上がった、と言う事件。タレーランが賄賂を要求したかどうかは判らない。もう一つの隠し子疑惑は、このころ社交界で伊達男として名を知られたタレイランが、前外務大臣ドラクロワの夫人と不倫関係にあり、そのあいだに子どもが生まれたという話。その子が成長して、画家として有名なドラクロワとなったと言われている。ナポレオンとの関係
老タレイラン
ダフ・クーパー『タレイラン評伝』p.385
・ナポレオンのもとで 1799年、ナポレオンがブリュメール18日のクーデタで権力を握り、統領政府が成立すると一時退いていた外務大臣に復帰、さらにナポレオンが皇帝となってからもその下で外交交渉に当たった。しかし1807年、フーシェとともに陰謀の容疑でナポレオンの怒りをかい、政権を離れた。
・復古王政で復活 1814年、ナポレオンが退位してブルボン朝ルイ18世が復古王政を始めるとタレイランも外務大臣に復活。ウィーン会議では正統主義の原則を提唱して、会議の道筋をつけた。ナポレオンの百日天下の時期はパリを離れたが、ワーテルローの戦いの後に国王とともにパリに戻り、15年7月、今度は総理大臣となった。しかしすでに60を超え、その後の活動は衰え、別荘で静かに暮らすことが多くなった。
・ルイ=フィリップを担ぎ出す 復古王政のルイ18世、シャルル10世が絶対王政に戻そうとして次第に議会と国民から離れていくと、タレイランは立憲君主主義者としての原点に返ったのか、議会つまりブルジョワと協調できる開明的な国王としてオルレアン家のルイ=フィリップに期待し、その担ぎ出しに一役買う。その功績で1830年、七月革命が成功し、七月王政が成立すると、タレイランは75歳で駐英大使に任命された。そして5年後の80歳で引退し、1835年、84歳で死去した。<ダフ・クーパー/曽村保信訳『タレイラン評伝』1963 中央公論社 後に中公文庫に上下で収録 ダフ・クーパーは戦前のイギリスの外交官・政治家としても著名な人だった。>