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ルイ18世

フランスブルボン朝のルイ16世の弟。革命により亡命生活を送っていたが、ナポレオン退位によって1814年に王位についた。ナポレオンが復活したため、再び亡命したが、15年にパリに戻りった。復古王政期の国王。

 フランス革命で処刑されたルイ16世の弟でプロヴァンス伯といった。ルイ16世が逃亡に失敗した後、パリを逃れて各地で亡命生活を送る。ドイツのコブレンツなどの亡命貴族/エミグレを反革命に組織しフランス復帰を策した。ドイツのウェストファリア地方の小都市ハムに移った後、1793年1月、ルイ16世が処刑されたことで、パリに幽閉されているその王子をルイ17世とし、自らは摂政を称した。その後、フランス帰還を狙ってイタリアに赴き、ヴェローナに拠点を構え、ルイ17世の死去に伴いルイ18世を名乗った。しかしナポレオンのイタリア遠征によってヴェローナを退出し、その後1798年からロシア(エカチェリーナ2世が96年に死去し、パーヴェル1世に代わる)の保護を受けたが、フランスでナポレオンが台頭し、1806年にロシアもナポレオン軍とのイエナの戦いに敗れティルジット条約を締結したため、ロシアを退出し、その後はポーランドやイギリスを転々とする亡命生活を送った。

王政復古

 1814年4月2日にナポレオンが退位し、ようやくフランスに帰還し、正式にルイ18世として即位し王政復古を実現させたときはすでに60歳になっていた。翌年、ナポレオンがエルバ島から帰還すると、ベルギーに逃れ、再び亡命生活となったが、百日天下に終わったため、まもなくパリに戻った。
 ルイ18世の復古王政は、1814年に王が定めた憲章(シャルト)に基づき、所有権の不可侵や法の下での平等や出版の自由などは認められ、世襲議員による貴族院と制限選挙制による下院からなる二院制議会が設けられ、立憲君主政の形態をとっていた。しかし、王の周囲で復活した貴族たちは、「国王よりも王党派的」な「ウルトラ」とわれる保守派が大勢を占め、さまざまな形で共和派や旧ナポレオン派に対する粛清が行われた。1824年にルイ18世が死んで、その弟のアルトワ伯が即位しシャルル10世となると、より積極的な絶対王政の復活が進められる。
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