グリニッジ天文台
ロンドン郊外のグリニッジに1675年に建設された王立天文台。1884年、グリニッジ標準時が定められた。現在では博物館となっている。
旧グリニッジ天文台
(トリップアドバイザー提供)
王立天文台の設立
グリニッジ天文台は、経度の決定に必要となる天文学的な観測データを得ることを目的として、1675年に500ポンドの建設資金を国王が提供して設立された、王立天文台であった。設立には王立協会の幹部たちがかかわっていたので、当初から協会との関係は密接であったが、その管理下にあったのではなく、独立した天文観測を行っていた。王立協会の管理下となる 1710年、アン女王のとき、権限授与状が王立協会に与えられ、協会の会長らが天文台の常任視察官として正式に任命された。これはグリニッジの王立天文台が王立協会の管理下に置かれたことを意味し、これ以後、天文台長は視察官に対して、毎年の観測データを引き渡すとともに、彼らの望む観測をしなければならなくなった。つまり王立協会は天文台の運営権を手に入れたのである。この変化は、1703年から王立協会の会長となっていたニュートンの個人的利害がその背後にあった。ニュートンは『プリンキピア』を刊行したがその初版はまだ完全とは言えず、生涯を通じて改訂に取り組んでいたが、この時期、特に精魂を傾けていたのは月の理論であった。そのため彼はたびたび月の観測データを提供してくれるように天文台長に求めていたが、色よい返事をもらえなかった。そこで、天文台を王立協会の管理下に置くことで、いわば公権力に訴えてデータを入手することにしたのだった。<大野誠『ジェントルマンと科学』1998 世界史リブレット 山川出版社 p.51-52>
世界標準時の設定
1884年、ワシントンで開催された国際会議で、ここを通る子午線を本初子午線(つまり経線0°)=世界標準時子午線として、世界の時刻の基準とすることが決められた。列国の中では、フランスが自国のパリを通る子午線を本初子午線とすることを主張し、事実しばらくはフランスで作られる地図はパリを通る線が経度0°としていた。結局、現在の本初子午線に落ち着いたが、それは19世紀のイギリスの世界帝国としての威信、科学技術の水準がものを言ったと言える。なお、グリニッジ天文台は現在では閉鎖され、博物館となっている。また、日本の標準時が明石を通る東経135°と決められたのは1888年のことであった。世界遺産 グリニッジ
グリニッジはロンドンの中心地からテムズ川沿いに南東に約10キロにある河港都市。ロンドンからテムズ川を船で下り、約40分のところに在る。1997年、世界標準時の発祥地となった旧王立天文台や国立海事博物館、旧王立海軍大学、17世紀に王妃が住んでいたクィーンズ・ハウスなどを中心とした建物群と、17世紀から続くマーケットなどを含む市街地一帯が「河港都市グリニッジ Maritime Greenwich」として世界文化遺産に登録された。 UNESCO World Heritage Convention Maritime Greenwich