王立協会/ロンドン王立協会
1662年に設立されたイギリスの自然科学研究団体。17世紀の科学革命を牽引し、18世紀以降もニュートンらの活躍の場となった。
王立協会は、イギリス王政復古期の1660年11月に自然を研究する新しい学問を愛好する人々の団体としてロンドンに設立されていた。チャールズ2世が王位に復帰した半年後であり、それ以前にフランシス=ベーコンが学問の組織的発展を主張したこと、フランスでのアカデミー=フランセーズがすでに1635年に発足していたこと、などが挙げられる。フランスではさらに1666年、パリに王立科学アカデミーが創立された。イギリスの王立協会はこれらの17世紀の科学革命の動向を牽引した。
王立協会の会員の多くは、ロンドンの王室、議会、政府に関わるジェントルマンであり、ヴァーチュオーソー(大家)といわれる人々であった。その点では「王立協会はロンドン中心の団体であり、イギリス全体の科学研究の動向を代表している機関ではなかった」のであった。また貿易商などの会員はほとんどいなかった。科学的知見の広がりのためには、ジェントルマン以外の会員を増やすことが課題となった。<大野誠『ジェントルマンと科学』世界史リブレット34 1998 山川出版社 p.26-36>
初期の会員には、気体の法則のボイルや、バネの法則のフックなどがいた。ニュートンは1672年に会員となり、1703~1727年まで会長を務めた。
王立協会の活動
王立協会が、たんなる私的な社交クラブではなく、科学研究のための国家的機関となったのは、は1662年に国王チャールズ2世から勅許状を与えられてからであり、これによって協会は正式に法人資格を持って公共的かつ永続的な活動を開始した。協会は法人として役員の選挙や資金管理などの規約を持ち、著作の出版許可権をもった。当時、一般的に書物の出版は事前許可法が制定されており、国教会の主教の出版許可が必要であったが、王立協会は主教の許可なしに自由に出版できた。1665年からは『哲学会報』を刊行し、研究者の研究発表の場とし、発見の先取権を認定する場として機能するようになった。資金は国王の下賜金と貴族やジェントリの寄付金と、会員の会費によって賄われた。王立協会の会員の多くは、ロンドンの王室、議会、政府に関わるジェントルマンであり、ヴァーチュオーソー(大家)といわれる人々であった。その点では「王立協会はロンドン中心の団体であり、イギリス全体の科学研究の動向を代表している機関ではなかった」のであった。また貿易商などの会員はほとんどいなかった。科学的知見の広がりのためには、ジェントルマン以外の会員を増やすことが課題となった。<大野誠『ジェントルマンと科学』世界史リブレット34 1998 山川出版社 p.26-36>
初期の会員には、気体の法則のボイルや、バネの法則のフックなどがいた。ニュートンは1672年に会員となり、1703~1727年まで会長を務めた。
Episode 王立協会と『経度への挑戦』
大航海時代以来、正確な経度を測定する方法がいろいろ試みられていたがいずれもうまくいかなかった。イギリスでもたびたび遭難事故があったので、1714年にニュートンら王立協会が、2万ポンドの賞金をかてて経度測定法を公募することとなった。正確な経度を測定するには、正確な時計が必要だったが、当時まだ誰も遠洋航海に使えるような時計を作ることはできなかった。1760年にヨークシャーの時計職人ジョン=ハリスンがクロノメーターと名付けたゼンマイ時計を考案した。しかし、王立協会は天文学的な方法で経度を測定できると考えていたので、ハリソンのクロノメーターを認めなかった。1775年にクックの第2回航海でハリソンのクロノメーターが正確であることがようやく証明された。こうして洋上で正確な時刻を計ることができ、経度の測定も正確にできるようになった。<デーヴァ・ソベル『経度への挑戦』1995 藤井留美訳 翔泳社>