イブン=アブドゥル=ワッハーブ
ワッハーブ派のイスラム改革運動指導者。
18世紀半ばのイスラーム復興主義にもとづく改革運動であるワッハーブ派の運動の指導者。正式な表記はムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ。アラビアの中央リヤドの北方のカーディ(イスラーム法の司法官)の家に生まれ、幼い頃からイスラームの文献を読み、アラビア各地を旅して見聞を広めた。その結果、彼はイスラーム教が8世紀以来に加えられた雑多な付加物によって堕落しており、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ(無明)時代の古い習慣が残存していると感じ、それらを徹底して取り除く改革運動を始めた。イスラームの信仰を本来の厳格なものに戻そうとする彼の運動には反対者も多く、彼は同郷の豪族サウード家のムハンマド=イブン=サウードの保護を受けた(1744年頃)。ムハンマド=イブン=サウードがワッハーブの娘と結婚して両家は結びつき、ワッハーブの教えに従い、ムハンマドの初期イスラームに回帰するための戦いを「聖戦」として実行し、オスマン帝国から独立してワッハーブ王国(第1次サウード王国)を樹立した。
Episode 二人のムハンマド
「こうして1744年とも、1745年ともいわれるが、両者の歴史的同盟は成立した。ワッハーブ派がサウード家を中央アラビアの世俗的主権の支配者として認めるとともに、サウード家もワッハーブの思想を受け入れ、初期イスラームの純粋性の回復を実現するために戦う(ジハード)ことを誓ったのである。その象徴的な出来事は、ムハンマド=イブン=サウードがムハンマド=イブン=ワッハーブの娘を娶ったことである。これは、その後のたびかさなる両家の交婚の最初となった。・・・・サウード家とワッハーブ家の同盟は、こののちアラビア半島に重大な意味をもたらすことになる。なぜなら、サウード家に従わないものは、ワッハーブから背教者、異教徒と見なされ、ジハードの対象とされたからである。宗教のため戦う戦士をムジャヒードといい、そのための戦死者は殉教者(ジャヒード)と呼ばれ、神から多大の祝福を受ける。ワッハーブの戦士は勇猛果敢に戦い、恐れられた。」<小山茂樹『サウジアラビア』1994 中公新書 p.37>