ワッハーブ派
18世紀半ばアラビアで起こったイスラーム教改革派。神秘主義や聖者崇拝を否定し、ムハンマド時代の厳格な一神教信仰に戻ることを主張した。アラビア半島中部の豪族サウード家と結び、19世紀にはワッハーブ王国を築いたがエジプトのアリーに敗れて消滅した。現代のイスラーム原理主義運動に影響を与えた。20世に復活しイブン=サウードのサウジアラビア建国を助けた。
ワッハーブ Wahhāb 派とは、18世紀半ば、アラビアのイブン=アブドゥル=ワッハーブ(1792年没)が起こした、イスラーム教の改革運動である。彼は、ヒジャーズ(アラビア)、イラク、シリアなどを旅行した後、当時のイスラーム教徒が、預言者ムハンマドの示した『コーラン』とムハンマドの言行(スンナ)の教えにいちじるしく逸脱している、と考え、それを粛正し、厳格な原始イスラームを復活しようとした。彼は、中央アラビアの小部族の首長だったサウード家のムハンマド=イブン=サウードという同志をみいだし、かれを養子とした。これは宗教と剣の結合の歴史的な再現であり、その結果、中部および東部アラビア全体へ、その信仰とサウード家の権威が急速に拡大した。彼らはその反対派からワッハーブ派と呼ばれた。<ヒッティ『アラブの歴史』下 講談社学術文庫 p.755>
ワッハーブ派のイスラーム純化運動は東南アジアにも広がり、1821~37年にはスマトラ島で彼らの反オランダ闘争であるパドリ戦争が起こっている。
ワッハーブ王国の建国
ワッハーブ派の主張は、ムハンマド時代の純粋な教えが、神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝によって間違った方向に向いていると批判し、コーランとスンナ(慣行)だけをよりどころとした本来の信仰に立ち返るべきであるという、イスラーム改革運動の最初の動きであった。1744年ごろ、サウード家と結んで、オスマン帝国の支配から自立し、ワッハーブ王国(第1次)を建国し、1803年にはメッカ、翌年にはメディナのイスラーム教の聖地を占領し、さらにシリアやイラクにも進出した。イスラーム教の聖地をワッハーブ派に占領されたことに脅威を感じたオスマン帝国のカリフマフムト2世は、エジプト総督ムハンマド=アリーに軍隊の派遣を命じ、それによって1818年にいったん滅ぼされる。ワッハーブ派のイスラーム純化運動は東南アジアにも広がり、1821~37年にはスマトラ島で彼らの反オランダ闘争であるパドリ戦争が起こっている。
Episode ワッハーブ派、ムハンマドの墓を破壊
ワッハーブの始祖の本名はムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ。彼の協力者となったのがムハンマド=イブン=サウード。この「二人のムハンマド」が結成したのがワッハーブ派。彼らの考えは教祖ムハンマドの教え戻り、忠実にそれを実行すること。彼らから見れば、古めかしいスーフィズムの聖者崇拝や、単なる木や石を霊廟だとしてあがめる偶像崇拝は許されないことであった。ワッハーブ派は1805年、メディナにあった教祖ムハンマドの墓廟さえも破壊した。たとえ預言者の墓であっても、墓を崇拝するのは許されない厳格な宗教純化の表れである。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1996 中央公論社 世界の歴史20>ワッハーブ派に対抗する動き
18世紀のアラビアでは、ワッハーブ派の運動に対抗して、神秘主義教団の中にも改革運動が始まった。それはネオ=スーフィズムともいわれ、従来の神学やイスラーム法(シャリーア)を軽視し、神秘体験のみを求めるという態度を改め、ワッハーブ派と同じくコーランとスンナだけに従うことを強調した。代表的な教団にはイドリース教団やその影響から起こったサヌーシー教団などがある。スーダンのムハンマド=アフマドが起こしたマフディー教団もその系列にある。サウジアラビア王国の建国
ワッハーブ派と結ぶ豪族サウード家は、一時クウェートに逃れるなど不遇な時期があったが、リヤドに戻ったアブドゥルアジズ(イブン=サウード)が勢力を回復し、ハーシム家のフセインが建国したヒジャーズ王国を破り、1925年までにアラビアの覇権を確立した。1932年にサウジアラビア王国を樹立した。サウジアラビアは現在もワッハーブ派を国教とした国家として存続している。