ディポネゴロ
ジャワ島のマタラム王国の王族で、1825~30年にオランダの植民地支配とのジャワ戦争を指導した。
Diponegoro 1785?-1855
永積昭『世界の歴史13 アジアの多島海』講談社 p.261
ディポネゴロの戦争
ディポネゴロはマタラム王国の王(スルタン)アマンクブウォノ3世の長男であったが、1814年に父王が死去したとき、弟のジャロットが王位を継いでアマンクブウォノ4世となった。ディポネゴロの母の地位が低かったかららしい。そのときジャワ島に進出していたイギリスのラッフルズは、ディポネゴロの人望の高いことを知り、懐柔しようとして次のスルタンにすることを約束した。ところがジャワ島がオランダに返還されることとなったためラッフルズは帰国、復帰したオランダ当局はディポネゴロとの約束など承知していないので、1822年にアマンクブウォノ4世の2歳の子を即位させ、ディポネゴロはその摂政とされた。またまた即位の機会を逃したディポネゴロには同情が集まった。復帰したオランダ当局は、オランダ人以外のヨーロッパ人や華僑がジャワ島の王族・貴族と借地契約をすることを禁止したが、これは王族・貴族の収入源だったので反発が強まった。さらにオランダ当局はディポネゴロの所有地の神聖な墓所を通る新しい道路計画をつくり、その神経を逆なでした。こうしてディポネゴロは1825年、都ジョクジャカルタをでて山に籠もり、オランダと戦う決意をした。
1825年、ディポネゴロは神のお告げを受けたと称し、武装した群衆を率いてジョクジャカルタを襲撃、オランダ人はスルタンを連れて逃亡し、白人や華僑が殺された。オランダ軍は態勢を立て直し、ディポネゴロはゲリラ戦で戦ったが次第に劣勢となり、コレラの流行や部下の離反で追いつめられ、1830年に和平交渉を申し出たが交渉の途中で捕らえられ、スラウェシに流されてしまった。
流刑地で彼はこの反乱を振り返り、『ディポネゴロ物語』を自ら執筆し、今に伝えられている。彼の名は、同じ時期に反オランダ闘争を展開していたパドリ戦争の指導者イマム=ボンジョールの名とともに、ジャカルタ市の大通りの名前として残されている。<永積昭『アジアの多島海』世界の歴史 13 講談社>