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ラッフルズ

イギリス東インド会社員、植民地行政官として、ジャワ島の経営、シンガポール買収と建設にあたった。シンガポールの貿易港としての繁栄を基礎を築いた。

ラッフルズ

シンガポールの上陸地点に立つラッフルズ像

 ラッフルズ Thomas Stamford Raffles 1781-1826 は、「シンガポールの建設者」として知られる、イギリスの東南アジア植民地支配に活躍した植民地行政官。1819年ジョホール王国からシンガポール島を買収し、商館と植民地を設立した。
 ラッフルズは父が船長で、ジャマイカ沖の船上で生まれた。14歳で東インド会社の臨時雇いとなり、ほとんど教育を受けていなかったにもかかわらず、マレー語をはじめジャワ語などの地域言語に精通し、勤勉に勤めて19歳で正社員となった。1811年、イギリス軍がフランス・オランダ連合軍(当時オランダはナポレオンの征服されていた)からジャワ島を奪回すると、ラッフルズは副総督としてその統治にあたり、さまざまな改革を行って植民地経営を進めた。またジャワ史を記すなど熱心な東南アジア地域研究者という存在でもあった。しかし、ナポレオン戦争後、ジャワはオランダに返還されたため、一旦イギリスに召還された後、スマトラ島のベンクーレンに赴任し、凖知事となった。<岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』2013 中公新書 p.7 などによる>

シンガポール島上陸と獲得

 1819年1月28日、ラッフルズは、シンガポール島を発見、島の南端に流れ込むシンガポール川を遡りカンボンと呼ばれていた小さなマレー人集落のある場所に兵士や乗組員、インド人などを含む120人で上陸し、その地が天然の良港であり、飲料水も補給できるところであることを知った。その島は、ジョホール王国の領土に属し、別な島に住むスルタンの支配を受け、すでにオランダの影響がおよんでいた。ラッフルズは、現在のスルタンが兄弟間で王位継承で争っていることを知り、その兄に接触し、正統なスルタンと認めるかわりに毎年5千ドルの年金を支払う条件で、シンガポール川河口付近一帯をイギリス東インド会社領とすることを認めさせた。1819年2月6日、両者の間で条約が結ばれ、イギリス領シンガポールが誕生した。

植民地シンガポールの建設

 ラッフルズが現地の首長(スルタン)と協定を結んだ事に対してオランダはただちに抗議、イギリス東インド会社もラッフルズの越権行為を非難したが、結局ラッフルズの作り上げた既成事実がものを言い、オランダも反対を取り下げ、イギリス東インド会社も承認したため、1824年に新たにスルタンと契約が交わされて、シンガポール全島がイギリス東インド会社領となり、事実上イギリス植民地に組み込まれた。
自由貿易港とする ラッフルズ自身は本国の友人への手紙で、「ここはどの点からみても、われわれが所有する植民地の中で最も重要で、かつ最も費用と手間のかからないものになると思われます。われわれの目的は領土ではなく交易です」と言っているように、シンガポールがマラッカ海峡の南の出口にあり、東南アジア海域の真ん中に位置しているという交易拠点であることを重視していた。そこでラッフルズは、他の港の支配者が入港税を徴収したのに対し、シンガポールをどの国の船舶でも無税で自由に利用できる自由貿易港とした。それによって世界各地から続々と交易船が集まり、シンガポールはラッフルズの見通し、あるいはそれ以上に発展することとなった。<岩崎育夫『同上書』 p.10-11>
 現在シンガポールの名門ホテルとして知られるラッフルズ・ホテルは彼の名前による。それだけでなく、シンガポールのエリート英語教育機関として後にリー=クアンユーなどが学んだのもラッフルズ学院といい、その名前が冠されている。

Episode ラッフルズの人物評

 1805年、ラッフルズはイギリスのペナン商館書記官補として初めて東南アジアに姿を現した。ポルトガルのアルブケルケがマラッカを陥れてから300年、オランダがポルトガルからマラッカを奪ったのが1641年。イギリスはインドに時間をとられ、ようやく東南アジア進出を本格化させた。ヨーロッパではフランス革命からナポレオン戦争へと発展した大動乱の時代である。ラッフルズは大のオランダ嫌いで、フランスには好意的。一時帰国のおり、セントヘレナのナポレオンを訪ねている。
(引用)・・・彼がペナンに到着したのは、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる区切り目だった。機械制生産によって可能となったヨーロッパ産業主義と市場経済が、アジア住民の生活を根本的に変える時が迫っていた。・・・ラッフルズについては、さまざまな評価がある。・・・人道主義的啓蒙家、自由貿易論者、すぐれた地域研究者(ジャワに関する著作があり、ボロブドゥール寺院の発見者としても知られている)、奴隷廃止論者、住民や文化に強い愛情と執着を持った人物、帝国主義者などである。どちらかというと、かれは評判のいい植民地主義者である。・・・(しかしラッフルズによって)マラッカ伝統は崩壊し、土地と主権は割譲されていった。それはこうした形で新しい主人の私腹を肥やしていった。清潔なイギリス植民地主義が、インドやマラヤでよき官僚制を育てたというのは神話だ。他人の労働を搾取する人間が腐敗しないわけがない。ラッフルズもその例外ではなかった。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 第4章>