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マタラム王国

16世紀、ジャワ島東部に成立したイスラーム教国。ヒンドゥー教国マジャパヒト王国に代わって繁栄に、ジャワ島西部のバンテン王国と対抗した。17世紀にオランダの侵出を受けて衰退した。

 16~18世紀に、インドネシアジャワ島東部を中心に成立したイスラーム教国。マタラームとも表記する。ジャワ島に存在した古マタラム王国(ヒンドゥー=マタラム)に対して、こちらは新マタラム王国(イスラーム=マタラム)と呼んで区別する。マタラムはジャワ島東部のジョクジャカルタ地方の古地名。
 ジャワ島にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国があったが、15世紀から東南アジアのイスラーム化が進み、マレー半島のマラッカ王国がイスラーム化すると、この地域にもイスラーム商人による海港都市が生まれてきた。16世紀にジャワ島内部の米作地帯に現れたマタラム王国は、ジャワ島西部のバンテン王国と対抗しながら、次第にジャワ島東部の海港都市も支配下に治めて、海上貿易に進出した。その歴史は分からないことも多いが、オランダ側史料に依れば1613年に三代目スルタン=アグンの時に有力となり、1620~25年ごろ、東部ジャワのスラバヤを手中に収めたらしい。

オランダ東インド会社の支配

 ジャワ島には16世紀後半にポルトガル人、7世紀初めからオランダ人、イギリス人が来航して、香辛料などの貿易を巡って激しく争うようになった。これらの諸国は互いに争ううちに、次第にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が優位となり、1619年にはジャワ島西部のジャカルタを占拠してバタヴィアを建設してオランダ東インド会社の拠点とした。マタラム王国は、たびたびバタヴィアを包囲攻撃したが、オランダ東インド会社は苦戦の末に防衛し、次第にジャワ島を中心に東インド支配を強化していった。
 1646年、マタラム王国のアマンクラット1世はバタヴィア(オランダ東インド会社)と平和条約を締結、バタヴィアはマタラム王に対して毎年使節を派遣して貢物を献上することが定められたが、同時にマタラム王国が交易をできる範囲を制限して、事実上会社が貿易を独占することを認めさせた。マタラム王国はその後、トゥルーノジョヨが起こした反乱などで弱体化し、東インド会社に反乱軍の鎮圧に協力を受けるなどの結果、1678年にはマタラムの王権はオランダによって保護されることとなった。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.162>

Episode マタラム王の王冠をかぶるオランダ人

(引用)1678年にはヒュルトの率いる討伐軍がクディリの町に拠るトゥルーノジョヨ(マタラム王に対する反乱の首謀者)の軍を破った。オランダ軍はマジャパイト王朝から伝わるマタラムの王冠を神器(オランダの史料によれば、短剣、やじり、上衣から成る)と共に奪回し、この王冠はやがて神聖な儀式と共に、アマンクラット2世の手に戻されたが、この時オランダ側のタク少佐が、王に先んじて王冠を試しに自分でかぶってみてから渡したというエピソードが残っている。別の説によれば、彼は王冠のうちの最も高価な宝石を抜き取ってから帰したとも伝えられている。・・・単なる噂としても、この話は二つの点で象徴的である。第一に、これ以後のジャワの王権はことごとくオランダの承認と保護とを必要とし、それを得た者のみが正統性を主張し得るようになった。第二に、王冠(したがって王権)に対するオランダの干渉は、ジャワの民心をはなはだしく離反させ、民衆は外来者の保護に頼る正統の王よりも、その敵である不遇な王位継承権者の方にひそかな同情を寄せるようになる。そして会社は、そういう原住民の感情におかまいなく、紛争介入の度毎に貿易上の利権を増大させつつ、次第にその関心を領土拡大へと傾斜させていくのである。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.162>

マタラム王国の消滅

 17世紀末以降、マタラム王国は内紛がたえなかったが、オランダ東インド会社はすぐにマタラム王国を滅ぼすのではなく、その分裂に介入しながらジャワ統治に利用し続け、18世紀半ばに支配権をオランダに実質的に譲渡した。その後は1755年に王国は二分割され、それぞれ自治領(王侯領とも言う)とされたため、マタラム王国の名は消滅した。東インド会社解散後は、オランダはジャワ島をオランダ領東インドとして直接統治するようになるが、これらの王侯の名目的な地位はなおも保たれていた。その一人ディポネゴロが1825年~30年に反オランダの反乱(ジャワ戦争)を起こしたが鎮圧され、それ以後はオランダは強制栽培制度を導入していく。

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永積昭
『オランダ東インド会社』
講談社学術文庫