天理教徒の乱
清朝の1813年、白蓮教徒の一部が天理教と名を変えて起こした反乱。
仏教系の民間宗教団体の白蓮教徒が起こした白蓮教徒の乱が、郷勇の手によって1804年に鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけていた。1813年、指導者の大工李文成と薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、林清は紫禁城 の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。反乱は結局鎮圧されたが、清朝の心臓部である紫禁城に反乱軍が侵入したことは清朝の衰退の始まりを示していた。
Epsisode 紫禁城に残る反乱の矢
反乱部隊は皇帝の居所の養心殿にせまった。嘉慶帝は不在だったが、第二皇子(後の道光帝)が小銃をとって応戦した。内応していた宦官は弾を込めていない小銃を手渡したので、皇子は服のボタンを込めて撃ったという。紫禁城の隆宗門の扁額にはこの時放たれた矢がまだささっているという。乱は鎮圧され、首謀者はとらえられ、参加者はすべて殺されたが、紫禁城に賊が侵入するという前代未聞の出来事は、清朝の衰退を予見させる出来事であった。<寺田隆信『紫禁城史話』1999 中公新書 p.171-173>