ロシアの東アジア侵出
17世紀後半からロシアはシベリアから極東方面への勢力拡張を積極的に展開、清朝から領土を奪い、18世紀後半には日本海に面する極東に到達、さらに満州・朝鮮半島にも勢力を膨張させ、イギリス・日本の帝国主義と衝突した。
<まとめ>ロシアは17世紀後半からシベリアから極東方面に進出、清と接することとなり、1689年のネルチンスク条約、1727年のキャフタ条約で未確定部分を確定するとして、有利な国境協定を結び、領土を拡げた。19世紀になると一挙に東進を積極化し、1858年の愛琿条約で黒竜江左岸、1860年の北京条約で沿海州を獲得、シベリアの東端に達し、軍港ウラジヴォストークを建設した。1890年代にシベリア鉄道の建設を進め、日清戦争後の三国干渉で日本の侵出を抑えた上で東清鉄道敷設権を得た。19世紀末の中国分割に加わり、遼東半島(大連・旅順)を獲得。さらに義和団事変で出兵して満州を抑え、朝鮮半島を目指す膨張政策は、イギリス・日本が強く警戒し、1902年の日英同盟結成となり、その上でロシアと日本は1905年に衝突、日露戦争となった。両国はともに犠牲が多く、アメリカの仲介を受けてポーツマス条約を締結、日本が遼東半島租借と南満州鉄道経営権を獲得することで終わり、ロシアの東アジア侵出は一応の終結を迎えた。
ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下政策
ロシアの勢力が満州(遼東半島)と朝鮮半島に及んだことに対して、朝鮮半島を日本の利益線であるとして、それを堅持するためにはロシアとの軍事衝突も避けられないという山県有朋ら強硬派と、ロシアと協調して満州はその勢力圏であることを認めることで韓国(1897年に国号変更)の実質支配を確保するという伊藤博文らの満韓交換論があって、政府内部でも対立していた。1898年4月25日には、満漢交換論の路線による日露の交渉が行われ、西=ローゼン協定が成立(西徳二郎が外相、ローゼンは駐日ロシア大使)、ロシアは日本の朝鮮半島における経済活動の優位を認めさせた。
日露戦争はロシアにとって遠い極東での戦争となり、シベリア鉄道・東清鉄道を利用したとしても兵員・物資の輸送に手間取り、不利な戦いを強いられることとなり、ついに1905年、ポーツマス条約が締結された。それによってロシアは東アジアにおいては、遼東半島(関東州=旅順・大連)と長春以南の南満支線の経営権を日本に譲ることで合意し、朝鮮半島は日本の勢力圏であることが確定、満州からは東清鉄道の経営以外はほとんど撤退することとなった。
ロシアと清の国境確定
ロシアはシベリアを東進、17世紀の末、ピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、中国・清朝は康煕帝のもとで全盛期を迎えており、ロシアの南下に反撃し、1689年、両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下政策
ムラヴィヨフの活動
19世紀のロシアでは、ニコライ1世の時の1847年に東シベリア総督が設けられ、その初代総督となったムラヴィヨフが、1858年の愛琿(アイグン)条約で黒竜江左岸を獲得して沿海州は共同管理とし、さらにアロー戦争で窮地に立つ清朝にイギリス・フランスとの講和を斡旋した見返りとして1860年、北京条約を締結して、沿海州の領有を認めさせた。これによってロシア領土は日本海岸に達し、ウラジヴォストークを建設して日本海から南下して太平洋への進出を可能にし、さらに朝鮮半島と満州(現在の中国東北地方)への進出の足場を築いた。シベリアから満州へ侵出
ロシアの南下政策はクリミア戦争での敗北によって一時、バルカン半島から後退したが、19世紀後半になると再びバルカン方面への進出をねらい、露土戦争によってオスマン帝国に勝利してスラヴ系国家の独立を支援することで、勢力を南下させようとした。しかし、ベルリン会議(1878)によって西欧列強の干渉を受け、後退を余儀なくされた。替わって19世紀末には東アジアへの侵出に力点を置くようになり、1891年にシベリア鉄道の建設を開始し、さらに1896年には満州を横断する東清鉄道の敷設権を清に認めさせた。参考 ロシアの戴冠式外交
ロシアは1896年6月、ニコライ2世は戴冠式(即位は1894年)を行い、その式典に各国代表を招き、戴冠式外交を展開した。- 清朝の李鴻章と外相ロバノフの交渉は露清密約(李=ロバノフ条約)といわれる秘密外交で、シベリア鉄道の支線として東清鉄道の敷設権を認めさせ、満州を横断してウラジヴォストークに繋がる路線とすることと、日本が将来、清・朝鮮を侵略したときにはロシアと清は協力して日本にあたる、という対日軍事同盟を結んだ。
- 日本に対しては外相ロバノフと特使山県有朋との間で「山県=ロバノフ協定」を結び、日露合意の上で朝鮮に財政支援することなどの公開条項とともに、両国が朝鮮に出兵する事態となったときは緩衝地帯を設ける、などの秘密条項を定めた。
- 朝鮮に対しては、特使閔泳煥に対しロシア人の軍事教官、財政顧問を派遣することを了承させた。
遼東半島の租借
1898年、中国の民衆がキリスト教布教に対する反発から外国人宣教師を殺害したことを口実に、ドイツ、フランス、イギリスなどのヨーロッパ列強がいっせいに清朝政府に迫り、租借や鉄道敷設権という利権を認めさせるという、中国分割が行われた。ロシアもその動きに乗じ、遼東半島の先端旅順・大連の租借を認めさせ、さらに東清鉄道の中間点ハルビンから旅順・大連に及ぶ南満支線の敷設権を認めさせた。旅順・大連はウラジヴォストークが冬季に凍結することがあるのに対し、完全な不凍港であることから、ロシアは海軍基地を設け、東方進出の重要な足場としようとした。三国干渉で清に還付した遼東半島がロシアの勢力下に入ったことは、特に日本に強い反ロシア感情を抱かせることとなった。ロシアの勢力が満州(遼東半島)と朝鮮半島に及んだことに対して、朝鮮半島を日本の利益線であるとして、それを堅持するためにはロシアとの軍事衝突も避けられないという山県有朋ら強硬派と、ロシアと協調して満州はその勢力圏であることを認めることで韓国(1897年に国号変更)の実質支配を確保するという伊藤博文らの満韓交換論があって、政府内部でも対立していた。1898年4月25日には、満漢交換論の路線による日露の交渉が行われ、西=ローゼン協定が成立(西徳二郎が外相、ローゼンは駐日ロシア大使)、ロシアは日本の朝鮮半島における経済活動の優位を認めさせた。
義和団事件
1900年に勃発した義和団事件(北清事変)に際しては、ヨーロッパ列強とともに出兵し、翌年、講和が成立し北京議定書が締結されて満州での駐兵権を得ると、駐兵期限が切れても義和団によって破壊された鉄道の復旧という口実でそのまま満州を事実上占領下に置いて撤兵しなかった。これは北京から奉天までの京奉鉄道の経営権を得ていたイギリスと直接的に利害が対立することであり、日本にとっても重大な脅威となった。日英同盟・日露戦争
このようなロシアの東アジアへの侵出に対して、同じく中国大陸への勢力拡大を進めていたイギリスと、ロシアの支配が朝鮮半島に及ぶことを強く懸念した日本がともに警戒して利害が一致し、両国は1902年に日英同盟を結成した。しかし、ロシアはロマノフ朝のツァーリズムが国内危機を膨張政策による外征で回避しようという動きが強まり、また日本でも軍部を中心に開戦論が強まって、ついに1904年の日露戦争となった。日露戦争はロシアにとって遠い極東での戦争となり、シベリア鉄道・東清鉄道を利用したとしても兵員・物資の輸送に手間取り、不利な戦いを強いられることとなり、ついに1905年、ポーツマス条約が締結された。それによってロシアは東アジアにおいては、遼東半島(関東州=旅順・大連)と長春以南の南満支線の経営権を日本に譲ることで合意し、朝鮮半島は日本の勢力圏であることが確定、満州からは東清鉄道の経営以外はほとんど撤退することとなった。