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ケア=ハーディ

イギリス労働運動の指導者。独立労働党をへて1906年に労働党の初代党首となる。

 ケア=ハーディ(Thomas Keir Hardie 1856-1915)はスコットランド生まれで炭鉱労働者として働きながら、労働組合の書記となった。はじめは労働組合の要求の実現を自由党に期待して、直接的な政治活動は控えていたが、本当の労働者の権利を守る法律を作るには、労働者の代表を議会に送ることが必要であると考えるようになった。1888年に同志と共にスコットランド労働党を結成し、1892年の総選挙で彼を始めとする3名の労働者代表が議席を得た。翌1893年1月、ヨークシャーの工業都市ブラッドフォードで独立労働党を結成した。彼は素朴で誠意ある態度と分かりやすい言葉で労働者に語りかけ、多くの支持を受けるようになった。

労働党の結成

 彼は労働運動と社会主義者の同盟が必要と考え、1900年2月にロンドンで65の労働組合と三つの社会主義団体、独立労働党、社会民主連盟フェビアン協会から129名の代表を集め、労働代表委員会を招集した。しかし同年、南アフリカ戦争の最中で行われた総選挙では、戦争反対を主張した同委員会は、ハーディともう一人の二人しか当選者を出せなかった。ハーディはより本格的な政党結成を目指し、会員の労働組合員から会費を集めて議員の政治資金とするしくみや党所属議員は党の多数決に従わなければならないという原則などを定め、1906年の大会で正式に名称を労働党とし、彼がその初代の党首となった。その年の総選挙では29名の当選者を出し、大躍進した。その後、ハーディは労働運動と女性参政権運動、平和運動に取り組み、第一次世界大戦でも反戦の姿勢を貫いたが、開戦間もない1915年に死去した。 → イギリスの社会主義運動
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