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社会主義運動

19世紀前半にはじまる社会主義の立場での改革運動。とくにマルクスの影響下でドイツで発展し、社会主義政党である社会民主党が生まれた。

 1840年代のドイツの産業革命によって労働者階級の形成が進み、その中から資本主義を否定し、労働者の解放を目指す思想が生まれた。フランスの空想的社会主義を批判的に発展させ、科学的社会主義を提唱したマルクスエンゲルスが、1848年に『共産党宣言』を発表し、社会主義運動を本格的に開始した。これはマルクス・エンゲルスらの組織した共産主義者同盟の綱領として作成されたものであった。
 しかし、一連のヨーロッパの1848年革命の失敗後、プロイセン政府の弾圧が強まり、マルクスもパリ、ロンドンなどで亡命生活を送ることとなった。
 一方でドイツの社会主義・労働運動には、マルクス主義とは別に、ラサール派の動きがあった。ラサールは労働者の選挙権獲得によって国政に参加し、社会改良を実現しようとし1863年に全ドイツ労働者同盟を創立した。
 労働者解放の運動の国際的組織化が進み、国際労働運動の気運が高まると1864年にロンドンで第1インターナショナルが結成され、ロンドンにいたマルクスはそれに参加し、創立宣言と規約を作成した。ドイツではマルクス主義を継承したベーベルやリープクネヒト(父)は1869年、アイゼナッハでドイツ社会民主労働党(アイゼナッハ派)を結成した。社会民主労働党はドイツの国内法により第1インターナショナルには加盟できなかったが、協力関係にあった。しかし、第1インターナショナルはマルクス派とバクーニン派の内部対立と、パリ=コミューンの敗北により、1872年に事実上活動を停止しなければならなかった。
 ドイツではラッサール派とアイゼナッハ派が1875年にゴータで合同大会を開催、ドイツ社会主義労働者党を結成した。ロンドンに亡命中のマルクス(1867年に『資本論』第1巻を発表していた)とエンゲルスは、この「ゴータ綱領」でのラサール派との合同を革命の後退であると批判した。ビスマルク体制のもとで、1878年、皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件を口実とした社会主義者鎮圧法が制定されると、非合法とされて弾圧されたが、かえって労働者の中に支持を広げていった。ビスマルク退陣によって1890年、社会主義者鎮圧法が撤廃された後、同党は「ドイツ社会民主党」と改称され、現在に至っている。その前年の1889年に、社会主義政党の国際連帯を目指す第2インターナショナルが結成されており、ドイツ社会民主党はその中心的な政党の役割を果たすこととなる。

イギリスの社会主義運動

19世紀後半のイギリスにおける社会主義運動には三つの潮流があった。

 イギリスの社会主義運動には、三つの系統がある。一つはマルクス主義の影響を受けた社会民主連盟(1881年、民主連盟として結成、1884年に社会民主連盟となる。)であり、それに対して漸進的な改革を主張したのがバーナード=ショーウェッブ夫妻らが結成したフェビアン協会(1884年結成)である。また、ケア=ハーディが組織した労働者代表の議会進出を目指す独立労働党(1893年結成)がある。

労働党の結成

 1900年にこの三つの組織が合同して、労働代表委員会を結成した。1906年にここからマルクス主義を主張する旧社会民主連盟の人々が脱退し、残ったメンバーが労働党と名称を変え、ケア=ハーディが初代委員長となった。
 従って労働党は、広い意味では社会主義政党であるが、マルクス主義やロシアで出現したボリシェヴィキとは一線を画し、暴力革命や前衛的革命集団であることは否定し、議会政治の枠内で漸進的な社会改良を進めようとした。そのような一党独裁を否定し、民主的な手続きで社会主義を実現していこうという路線は、社会民主主義と言われるようになる。その経済政策には国家による経済統制や、社会保障の重視など、社会主義の理念が強く打ち出されることもあるが、外交路線は冷戦時代には社会主義国ソ連とは距離を置き、アメリカとの密接な強調を続けた。
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