労働党(イギリス)
1906年に正式に政党となったイギリスの社会民主主義政党。1924年に自由党と連立で政権獲得。その後、自由党に代わって保守党に対抗する政党となり、第二次世界大戦後はたびたび政権を担当した。
イギリスの社会主義運動を別個に進めていた、三つの団体、独立労働党・社会民主連盟・フェビアン協会の三者は、独立労働党のケア=ハーディが提唱し、労働者の代表を議会に送るための本格的な政党の結成を目指し、1900年に上記三団体に加えて労働組合を糾合して労働代表委員会を結成した。書記にはマクドナルドが選ばれた。これが実質的な労働党の発足である。正式にはこのうち、マルクス主義をとる社会民主連盟が抜けて、残りの労働組合活動家が1906年1月に労働党(党首にはケア=ハーディが就任)と改称した時に始まり、同年の総選挙で29名の当選者を出した。その主張は労働者の最低生活の保障、基礎産業の国有化などで、手段としての暴力革命を否定、議会を通じての漸進的な社会改良を主張する政党であり、その路線は「社会民主主義」と言われるようになる。
1918年の選挙法改正(第4回)で男性は21歳以上のものすべてに、女性は30歳以上に選挙権が与えられ、男性に関しては普通選挙が実現したことによって、労働党の得票は飛躍的に拡大した。同年、労働党は「労働と新秩序」を綱領として掲げ、ウェッブ夫妻が起草した党綱領第4条で「生産・分配・交換の手段の共同所有」を明記し、社会主義路線を提示した。
1980年代には保守党のサッチャーは労働党政権を批判して「小さな政府」を掲げ、新自由主義に基づいて規制緩和・民営化を強力に推し進め、労働党の支持基盤である労働組合は苦境に立たされた。90年代にも保守党政権が続いたが、そのころから保守党長期政権下での格差の拡大などにたいする批判が高まり、1997年の総選挙ではブレアの率いる労働党が久しぶりに勝利し、政権を復活させた。
党勢の拡大
第一次世界大戦が勃発すると、他国の社会民主主義政党と同じように、祖国防衛のための戦争を肯定したが、党首マクドナルドは戦争反対を貫き党首を辞任した。労働党としては一部がロイド=ジョージ挙国一致内閣に参加した。1918年の選挙法改正(第4回)で男性は21歳以上のものすべてに、女性は30歳以上に選挙権が与えられ、男性に関しては普通選挙が実現したことによって、労働党の得票は飛躍的に拡大した。同年、労働党は「労働と新秩序」を綱領として掲げ、ウェッブ夫妻が起草した党綱領第4条で「生産・分配・交換の手段の共同所有」を明記し、社会主義路線を提示した。
マクドナルド労働党内閣
第一次世界大戦後の不況は労働者の生活を苦しくしたため、労働党の社会民主主義と言われる政策に対する期待感が強まり、1923年の総選挙で労働者大衆の支持を受けて第2党に躍進した。翌1924年に労働党のマクドナルドが首相となり、自由党との連立で第1次マクドナルド内閣を成立させた。この内閣はソ連の承認するなど革新的な政治を目指したが、自由党との協調が続かず、短命に終わった。しかし、イギリスという帝国主義の先端を行く国家において、労働者の権利の擁護と生活の向上を目指す政権が誕生したことの意義は大きい。世界恐慌と労働党の分裂
労働党はその後、1928年の第5次選挙法改正で男女平等選挙権が実現が実現したことによって議席を増やし、翌1929年6月のに第2次マクドナルド内閣を労働党単一内閣として実現させたが、おりからの世界恐慌に対して、マクドナルドらは緊縮財政の一環として失業手当の一律10%削減を打ち出し、労働組合が反発し、内閣は崩壊してしまった。労働党を除名されたマクドナルドは保守党の主導権のもとにマクドナルド挙国一致内閣を組閣したが、労働党はそれには協力しなかった。第二次大戦後のアトリー労働党内閣
第二次世界大戦ではチャーチルを首相とした戦時内閣に加わり、党首アトリーは副首相として戦争遂行に協力した。ドイツ降伏後に連立を離脱し、大戦末期の1947年7月の総選挙では保守党と争い、重要産業国有化と社会保障制度の充実を掲げ、チャーチル保守党の戦争指導に飽き社会変革を求めるた民衆の支持を受けて大勝して第一党となり、初の労働党単独内閣であるアトリー内閣を成立させた。アトリー労働党内閣は重要産業国有化や「ゆりかごからから墓場まで」という社会保障制度の充実などの社会主義的政策を推進した。労働党政権の財政出動による完全雇用の実現という経済政策と福祉国家の建設は、世界恐慌後に登場したケインズの示した社会民主主義の路線に添うものであった。保守党との二大政党政治
その後、戦後イギリスでは保守党と並ぶ2大政党として、ほぼ交互に政権を担当し、60~70年代にはウィルソンが二度組閣をしている。しかし、次第にイギリス経済の停滞が目立ち始め、産業施設(インフラ)の老朽化・社会保障費の増大と冷戦下の軍事費の負担増から財政難が進行するなど、イギリス病といわれる事態が表面化し、同時にイギリスの国際政治での地位の低下もあきらかになったため支持率の下降傾向が続いた。1980年代には保守党のサッチャーは労働党政権を批判して「小さな政府」を掲げ、新自由主義に基づいて規制緩和・民営化を強力に推し進め、労働党の支持基盤である労働組合は苦境に立たされた。90年代にも保守党政権が続いたが、そのころから保守党長期政権下での格差の拡大などにたいする批判が高まり、1997年の総選挙ではブレアの率いる労働党が久しぶりに勝利し、政権を復活させた。
ブレア労働党の転換
それより前、1995年に労働党はブレア党首の下で綱領の改定を行い、大きく転換していた。1918年に制定された綱領第4条を全面改定し、「労働党は民主的な社会主義の党である」と明確に定義し、新しい「社会民主主義」をめざすことを表明していた。97年に政権を取ってからのブレア労働党は、かつての労働党とは多くの面で異なり、経済政策ではサッチャー路線を継承することをかかげながら社会保障にも気を配るという姿勢をとり、「第三の道」と称した。サッチャー路線の行きすぎの修正しながら現実的に対応していくという手法は一定の支持を受け、政権は安定した。しかし、外交では国内の反対を押し切ってイラク戦争などでアメリカのブッシュ政権に追随する姿勢が強かった。2007年6月、党首をブラウンに譲ったが、労働党人気は低落し、2010年選挙では敗れ、保守党と自由民主党連立のキャメロン政権となった。