宋教仁
辛亥革命期で、民主主義の実現を目指す最も急進的な革命家であった。国民党結成、臨時約法の制定などに尽くし、1913年に袁世凱に暗殺される。
湖南省の生まれで、1903年、同郷の黄興らと清朝の打倒をめざす革命組織、華興会を組織した。翌年の長沙蜂起に失敗し、日本に亡命し、さらに1905年、興中会の孫文が日本に亡命し、革命各派を糾合して中国同盟会を組織するとそれに合流した。
臨時約法と国民党結成
中国に戻って革命工作を続け、武昌蜂起を指導して辛亥革命を実現し、その後は最も急進的な民主革命を追求した。彼は中国における議会制民主主義を実現しようとして、日本亡命中に早稲田大学で世界の憲法や議会制度を学び、革命後の中国の将来の憲法制定までの臨時的な基本法として、臨時約法の起草にあたった。臨時約法は、袁世凱が臨時大総統となった日の翌日、1912年3月11日に公布された。臨時約法によって、議会が開催されることになったので、1912年8月25日、宋教仁は国民に開かれた公開政党として国民党を組織した。宋教仁よりも年上の革命家孫文は、必ずしも臨時約法に賛成ではなかった(中国で民主政治、議会政治は時期尚早と考えていた)が、国民党結成には協力し、その理事長となった。宋教仁、31歳で暗殺される
国民党は1913年、初めて行われた選挙で、袁世凱によって援助されて結成された政党を破って、第一党となった。これによって議会制民主主義の実現し、議会が始まれば、袁世凱は専制政治を行うことが困難になるので、危機感を強く持った。同1913年3月20日、宋教仁は、上海で袁世凱の手先の刺客に襲われ、暗殺されてしまった。(引用)1913年3月20日の夜、上海駅に革命派のリーダーだった黄興らの姿があった。いまや彼らは中華民国の暫定的な憲法である臨時約法に基づいて、実施された選挙の結果選ばれた国会議員だった。北京へむかう列車の出発時刻が近づき、彼らが待合室から出たところ、突然“ぱーん”という乾いた音がひびいた。何ごとかとふりかえった黄興の前で、うめき声を上げて倒れ込んだのは、この選挙で圧勝した国民党の事実上の党首である宋教仁だった。つづいて二発の銃声が鳴り、あたりは騒然となった。病院にかつぎこまれた宋教仁は手術を受けたが、背後から撃たれた傷は腹部に達し、すでに手遅れの状態だった。22日未明に宋教仁は死んだ。享年わずか三十一。やがて犯人は逮捕されたが、その背後にいた黒幕は中華民国の臨時大総統である袁世凱だった。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 講談社 中国の歴史10 p.165>
第二革命へ
日本を訪問中であった孫文が直ちに帰国、国民党は結束して4月8日に開会した議会に臨んだ。議会では袁世凱政府が外国から大借款を組むことを独断で決めたことを盛んに批判したが、袁世凱は国民党議員を買収や脅迫で切り崩していった。反発した孫文、黄興、胡漢民、李烈鈞らは、議会での活動の限界を実感し、ついに武装蜂起し、第二革命が起きる。