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禁酒法

1920年代のアメリカで実施された、酒類の製造・販売・流通を禁止制限する法律。1933年まで存続した。

 アメリカ合衆国の戦間期に施行された、酒類の製造販売を禁止、規制する法律。第一次世界大戦後の未曾有の1920年代の経済繁栄の一方でアメリカの精神主義の高まりを示すものいえる。1919年1月に憲法修正18条として飲用アルコールの醸造、販売、運搬、輸入、輸出が禁止され、連邦議会および各州議会が禁酒法として制定した。ただし、工業用アルコールは製造が認められたため、かえって不純な密造酒が増え、規制は困難だった。それでも大戦間期に13年間存続し、大恐慌後の1933年、憲法修正21条によって廃止された。

禁酒運動のはじまり

 アメリカにおける禁酒運動(temperance movement)は南北戦争前から始まっており、州によっては禁酒制が成立したところもあった。南北戦争後の1872年にはオハイオ州コロンバスで禁酒主義者は大会を開き、大統領候補を指名したが、その得票は30万に達したことはなく「変人」あつかいされていた。しかし、次第に強引な手法を改め、酒場反対同盟を結成して運動を浸透させ、多くの市町村を「禁酒(ドライ)」地域にすることに成功していった。この動きは、1880年代に共和党民主党が同じような政策を掲げて違いがなくなったことで労働者党や農民政党が出現したことと同じ、「第三党」の動きと捉えることができる。<ビアード『アメリカ政党史』p.109>
 また、禁酒法制定の運動は、19世紀末のアメリカで盛んだった革新主義の動きとも結びついていた。

第一次世界大戦で禁酒論強まる

 20世紀に入ると、禁酒運動は急速に活発になった。背景には当時増え続けた移民によって大陸から日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を守ろうという保守派の動き、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に物資節約・生産性向上の声が強くなったことなどがあげられる。
 また、アメリカの参戦により、ドイツ嫌いの風潮が強まり、ビール醸造業を潰してドイツ系市民に打撃をあたえようという声が、ビール醸造に使われる穀物を節約して前線の兵士に送ろうという主張の裏側にあったことも指摘されている。

憲法修正18条

 1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増え、1917年12月、酒類の製造・販売・輸送・輸出入を禁止する憲法修正18条アメリカ合衆国憲法の追加条項として議会で可決された。しかし各州での批准には時間を要し、ようやく成立したのは、戦後の1919年1月に禁酒法(Prohibition Law)が確定公布された。禁酒の具体的な内容を定めたヴォルステッド法が成立したのは、同年10月だった。こうして翌年1月には憲法修正18条が発効し、アメリカは禁酒法時代に入った。

反禁酒法の高まり

 しかし、飲酒を完全に撲滅することは難しく、秘密の酒場が繁昌し、密造酒が高額で売買された。そこに目を付けたギャング-その首領がシカゴのアル=カポネ-が大儲けすることとなった。禁酒法は1920年代を通じて施行されたが、反禁酒法の議論も根強く、大恐慌の混乱の後、ようやくフランクリン=ローズヴェルト大統領就任直後の1933年12月に廃止される。

なぜ禁酒法が成立したか

 以下はF.L.アレンのすぐれた1920年代論である『オンリー・イエスタディ』からの引用である。
(引用)どうしてこんなことになってしまったのか?このようにきわめて重大な法令を、なぜこのように圧倒的に、まるできまぐれのように受け容れたのだろうか。・・・・合衆国の大戦参加は、禁酒指導者に大きなチャンスを与えることになった。完全禁酒プログラムには反対していたはずの人びとの注意は戦争に奪われ、国家存亡の危機に際しては、アルコールの将来などは些細なことだと考えられた。また戦争は、連邦政府に新たに広汎を権力を与える思いきった法律制定に、国民を馴らしてしまった。食糧の節約が必要となり、穀物節約の手段として、政府は愛国主義者たちに禁酒を奨励することになった。政府は、世論をすべてドイツ反対に変えた。 - しかも、大きなビール醸造業者や蒸溜酒製造業者の多くはドイツ系であった。憲法修正第十八条はその自然な表現だが、戦争はまたスパルタ式理想主義のムードをもたらした。すべてのものが能率と生産と健康のために犠牲にされた。しらふの兵士が良い兵士であり、しらふの工員が生産能率の良い工員であるならば、禁酒論議は、さしあたり反駁の余地のないものだった。一方、アメリカ国民はユートピア的な理想を抱いていた。もしこの戦争がすべての戦争を終わらせるものであり、勝利が新たな輝かしい世界秩序をもたらすことを可能にすると考えるならば、アメリカが、この効果的な禁酒を無限に続ける時代に入っていくことを想像するのは、いかにも容易であった。そして結局、戦争は国民を、即座に結果があらわれないと苛立つように変えてしまった。一九一七年と一八年には、やる価値のあるものは何でも、官僚式手続きや反論や快不快や便不便を無視して、即刻やる価値がある、ということになってしまった。こうした諸勢力の結合は、抵抗し得ないものだった。国民は熱病にかかったように、息せききって、禁酒のユートピアへの近道を選んだ。<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1993 ちくま文庫 p.328-330>

Episode アル・カポネと聖ヴァレンタインの虐殺

 1920年、シカゴの顔役ジョニー・トリオは闇酒の販売が大した金になることに気づいた。販売権を独占するために突撃隊の副官をさがした。目を付けたのがニューヨークの悪名高いファイヴ・ポインツ地区のギャングでナポリ生まれの23歳の暴れん坊、アルフォンス・カポネだった。カポネは3年で700人の子分を持つほどに力を付け、親分のトリオは影が薄くなってしまった。カポネはシカゴの市長や警察を抱き込み、賭場と闇酒場を支配した。その有力な競争相手の一人が昼は花屋、夜はギャングの二役を演じていたディオン・オバニオンであった。カポネの一味はギャング兼花屋のこの男にその店先で6発の弾丸を撃ち込んだ。その残党がカポネの本拠を襲撃、彼は危うく難を逃れた。1929年の聖ヴァレンタイン・ディ2月14日、オバニオン一家の残党が略奪した密造酒の引き渡しにとある倉庫で待っていると、そこにキャデラックで乗り付けた3人の警官が、オバニオン一家の7人を壁に並ばせた。続いて降りてきた平服の2人がサブマシンガンを乱射して7人を射殺、5人は平然と車で逃走した。32歳のカポネはこうしてシカゴに君臨し、酒の密売、賭博、恐喝その他の違法な利益をあげた。<F.L.アレン/藤久ミネ訳『オンリー・イエスタディ』1993 ちくま文庫 p.343-356>