アメリカ合衆国憲法
アメリカ独立革命によって成立したアメリカ合衆国の基本法として1787年に制定された。世界最初の共和政原理をかかげ、三権分立、大統領制などを実現した。1791年、憲法修正によって権利章典が加えられた。
Constitution of the United States 1787年に憲法制定会議(フィラデルフィア)で採択され、9邦以上の批准によって1788年6月21日に発効したアメリカ合衆国の憲法。前文と7条からなるものであった。その後、200年間に26条の修正条文が付加された。アメリカ独立宣言の理念を継承し、世界最初の共和政原理に基づいた制定された近代的憲法として重要である。 → アメリカ合衆国の成立
アメリカ連合規約と合衆国の連合会議(Congress of the United States)のもとで、各邦議会はそれぞれの自由を主張し、貨幣・紙幣を発行し、他邦からの輸入品に勝手に税を課したりした。連合会議は法律を制定してもそれを執行する執行機関と紛争を解決する司法機関を持たなかった。また連合会議の代議員は人民の直接選挙ではなく、各邦の議会で選出される代表で構成され、票決権は各邦一票であった。こうして連合規約の改正問題がアメリカ国民にとって緊急の問題となってきて激しい論議が持ち上がった。1786年、ヴァージニアのある集団の邦議会への勧告によって、租税と貿易についての全体的協議会がアナポリスで開催されることになった。わずか5邦の代表しか集まらなかったが、ニューヨークのアレクザンダー=ハミルトンの提案で連合規約の改正(より強固な連邦的結合を実現させる憲法制定)のためフィラデルフィアに協議会を開催することが決議されて閉会した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』p.130-133> → 憲法制定会議
であろう。なお、この段階では基本的人権に関する規定が無く、連邦政府の権利乱用による国民の権利侵害の恐れがある、という批判があり、「権利章典」といわれる修正第1条から第10条が追加され1791年12月15日に発効した。
アメリカ合衆国憲法の意義 憲法の修正は連邦議会が発議権を持ち、両院それぞれで3分の2の賛成で発議し、4分の3の州が批准することによって「憲法修正」が成立する。この場合は大統領の署名は必要ない。アメリカ合衆国憲法の改編は全条文を一度に変えるのではなく、1787年に採択されてから基幹となる条文はそのまま続き、必要な修正を加えていく、というスタイルを採る。その点で言えば、アメリカ合衆国憲法は世界最初で、現在も効力を有している最古の近代的成文憲法である(イギリスには成文憲法はない。フランスの最初の憲法は1791年憲法である)。
ヴァージニアではパトリック=ヘンリーが、ニューヨークではクリントン知事がそれぞれ反対を表明して批准が遅れたが、7月までに僅差で批准した。ロードアイランドとノースカロライナの批准は、1789年の新政府発足後にずれこんだ。このように憲法批准に時間がかかった主な争点は、権利章典が不備であったためであった。<紀平英作編『新版世界各国史24 アメリカ史』p.86>
憲法修正第11条:1795年、連邦裁判所の管轄権から他州の市民が別の州を訴える訴訟を除外した。
憲法修正第12条:1804年、大統領選挙で最高得票者を正大統領、次点を副大統領とする規定を改め、選挙人は正副大統領の両者を指定して投票することとした。(1800年選挙でフェデラリスト党のアダムズが正大統領、反対党であるリパブリカン党のジェファソンが副大統領となったことをふまえて改正した。)
憲法修正第13条:1865年、リンカン大統領の奴隷解放宣言を具体化するために黒人奴隷制の廃止を定めた。
憲法修正第14条:南北戦争後の1868年に、合衆国すべての市民に市民権を認めることで、黒人の市民権も認めた。しかし、公民権(参政権や教育を受ける権利など)で黒人と白人を区別することは実質的に復活した。
憲法修正第15条:1870年、黒人に投票権を認めた。ただし、財産や識字能力による差別禁止の明文がなかったので、南部各州は州法で投票権の前提に人頭税納入や識字テストを導入し、実質的にその投票権を制限した。
憲法修正第16条:1913年、所得税を間接税として解釈し、連邦政府が徴収できるようにした。
憲法修正第17条:1913年、上院議員を州の住民が直接選挙で選出することとした。それまでは州議会で選出されていた。
憲法修正第18条:いわゆる禁酒法で、1919年に各州の批准が終わり確定した。これは、1933年の憲法修正21条によって廃止された。
憲法修正第19条:1920年に女性参政権を保証した。すでに州では女性選挙権を認めるところが増えていたので、ここで全国的に認められた。
憲法修正第20条:1933年、大統領の任期開始を従来の3月から1月に早めたはど。
憲法修正第21条:1933年、憲法修正第18条の禁酒法を廃止した。 憲法修正第22条:1951年に確定した、大統領任期を2期までとした改定。大統領任期は憲法上規定がなく、初代ワシントン以来前例として2期までが守られてきたが、第二次世界大戦中にF=ローズヴェルトが特例的に4期まで務めた。不明確であった大統領任期をはっきりさせるため、この憲法修正で2期に制限された。
憲法修正第23条:1961年、ワシントン特別区(コロンビア特別区、DC)の住民に大統領選挙のための選挙人(3名)を選任する権利を認めた。
憲法修正第24条:1964年、連邦選挙における選挙権行使に際し、人頭税その他の税を課すこと禁止した。憲法修正第15条の不備を改めた。50年代後半からの公民権運動の盛り上がりによって、同年の公民権法とともに黒人投票権に対する制限は認められなくなった。
憲法修正第25条:1967年に大統領が任期途中に欠けた場合、副大統領が昇格するという慣行を憲法の規定として確定した。
憲法修正第26条:1971年に連邦、州を問わずすべての選挙で選挙年齢を18歳以上とした。
憲法修正条項の簡単な説明は、<大下尚一他『アメリカハンディ辞典』p.56~60>を参照。
合衆国憲法の制定
アメリカ独立革命において、アメリカ合衆国憲法が制定されるまでのアメリカは、次のような状況であった。アメリカ連合規約と合衆国の連合会議(Congress of the United States)のもとで、各邦議会はそれぞれの自由を主張し、貨幣・紙幣を発行し、他邦からの輸入品に勝手に税を課したりした。連合会議は法律を制定してもそれを執行する執行機関と紛争を解決する司法機関を持たなかった。また連合会議の代議員は人民の直接選挙ではなく、各邦の議会で選出される代表で構成され、票決権は各邦一票であった。こうして連合規約の改正問題がアメリカ国民にとって緊急の問題となってきて激しい論議が持ち上がった。1786年、ヴァージニアのある集団の邦議会への勧告によって、租税と貿易についての全体的協議会がアナポリスで開催されることになった。わずか5邦の代表しか集まらなかったが、ニューヨークのアレクザンダー=ハミルトンの提案で連合規約の改正(より強固な連邦的結合を実現させる憲法制定)のためフィラデルフィアに協議会を開催することが決議されて閉会した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』p.130-133> → 憲法制定会議
合衆国憲法の要点
その内容の要点は、であろう。なお、この段階では基本的人権に関する規定が無く、連邦政府の権利乱用による国民の権利侵害の恐れがある、という批判があり、「権利章典」といわれる修正第1条から第10条が追加され1791年12月15日に発効した。
アメリカ合衆国憲法の意義 憲法の修正は連邦議会が発議権を持ち、両院それぞれで3分の2の賛成で発議し、4分の3の州が批准することによって「憲法修正」が成立する。この場合は大統領の署名は必要ない。アメリカ合衆国憲法の改編は全条文を一度に変えるのではなく、1787年に採択されてから基幹となる条文はそのまま続き、必要な修正を加えていく、というスタイルを採る。その点で言えば、アメリカ合衆国憲法は世界最初で、現在も効力を有している最古の近代的成文憲法である(イギリスには成文憲法はない。フランスの最初の憲法は1791年憲法である)。
資料 アメリカ合衆国憲法前文
「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。」批准をめぐる論争
アメリカ合衆国憲法案は1787年9月17日に憲法議会で採択され、連合議会に送付された。連合議会は28日、憲法を批准するため各邦に送付され、合衆国憲法を批准するかどうかを巡り、各邦で批准推進派である連邦派(フェデラリスト)と反対派である反連邦派(アンチ=フェデラリスト)の激しい議論が巻き起こった。連邦派は共和政国家には中央集権的な政府が必要と訴え、反連邦派は憲法に人権規定(権利章典)がなく、政府によって個人の自由が権利が奪われるという理由で反対した。合衆国憲法の批准と成立
まず、デラウェア・ニュージャージー・ジョージア・コネティカットの4邦が、1788年正月までに圧倒的多数で批准した。次いで2月にペンシルヴェニア・マサチューセッツで僅差で批准され、メリーランド・サウスカロライナが続き、6月にニューハンプシャーの批准によって9邦に達して合衆国憲法は成立し、7月2日に連邦議会は正式に批准を宣言、発効した。ヴァージニアではパトリック=ヘンリーが、ニューヨークではクリントン知事がそれぞれ反対を表明して批准が遅れたが、7月までに僅差で批准した。ロードアイランドとノースカロライナの批准は、1789年の新政府発足後にずれこんだ。このように憲法批准に時間がかかった主な争点は、権利章典が不備であったためであった。<紀平英作編『新版世界各国史24 アメリカ史』p.86>
権利章典の追加修正
1789年3月4日にニューヨークで開催された第1回アメリカ連邦議会は、権利の章典の制定が焦点となった。それは憲法批准に当たって各邦から出されていた付帯決議をもとにして、ジェームズ=マディソンが憲法修正条項としてまとめ、各州(憲法成立前は邦といった)に回された結果、1791年12月までに憲法修正1条から10条が批准され、成立した。この憲法の一部を形成する修正条項は、第1条で政教分離、信教・言論出版の自由、集会・結社の自由など基本的人権を定め、権利章典と言われている。この修正(追加)により、アメリカ合衆国憲法は、権力が国民をしばるものではなく、国民の人権を政府から守るため、政治権力をしばるものという近代憲法の基本的性格が付与された。その後の憲法修正
アメリカ合衆国憲法には、その後も多くの修正条項が加えられた。主なものには次のような修正がある。憲法修正第11条:1795年、連邦裁判所の管轄権から他州の市民が別の州を訴える訴訟を除外した。
憲法修正第12条:1804年、大統領選挙で最高得票者を正大統領、次点を副大統領とする規定を改め、選挙人は正副大統領の両者を指定して投票することとした。(1800年選挙でフェデラリスト党のアダムズが正大統領、反対党であるリパブリカン党のジェファソンが副大統領となったことをふまえて改正した。)
憲法修正第13条:1865年、リンカン大統領の奴隷解放宣言を具体化するために黒人奴隷制の廃止を定めた。
憲法修正第14条:南北戦争後の1868年に、合衆国すべての市民に市民権を認めることで、黒人の市民権も認めた。しかし、公民権(参政権や教育を受ける権利など)で黒人と白人を区別することは実質的に復活した。
憲法修正第15条:1870年、黒人に投票権を認めた。ただし、財産や識字能力による差別禁止の明文がなかったので、南部各州は州法で投票権の前提に人頭税納入や識字テストを導入し、実質的にその投票権を制限した。
憲法修正第16条:1913年、所得税を間接税として解釈し、連邦政府が徴収できるようにした。
憲法修正第17条:1913年、上院議員を州の住民が直接選挙で選出することとした。それまでは州議会で選出されていた。
憲法修正第18条:いわゆる禁酒法で、1919年に各州の批准が終わり確定した。これは、1933年の憲法修正21条によって廃止された。
憲法修正第19条:1920年に女性参政権を保証した。すでに州では女性選挙権を認めるところが増えていたので、ここで全国的に認められた。
憲法修正第20条:1933年、大統領の任期開始を従来の3月から1月に早めたはど。
憲法修正第21条:1933年、憲法修正第18条の禁酒法を廃止した。 憲法修正第22条:1951年に確定した、大統領任期を2期までとした改定。大統領任期は憲法上規定がなく、初代ワシントン以来前例として2期までが守られてきたが、第二次世界大戦中にF=ローズヴェルトが特例的に4期まで務めた。不明確であった大統領任期をはっきりさせるため、この憲法修正で2期に制限された。
憲法修正第23条:1961年、ワシントン特別区(コロンビア特別区、DC)の住民に大統領選挙のための選挙人(3名)を選任する権利を認めた。
憲法修正第24条:1964年、連邦選挙における選挙権行使に際し、人頭税その他の税を課すこと禁止した。憲法修正第15条の不備を改めた。50年代後半からの公民権運動の盛り上がりによって、同年の公民権法とともに黒人投票権に対する制限は認められなくなった。
憲法修正第25条:1967年に大統領が任期途中に欠けた場合、副大統領が昇格するという慣行を憲法の規定として確定した。
憲法修正第26条:1971年に連邦、州を問わずすべての選挙で選挙年齢を18歳以上とした。
憲法修正条項の簡単な説明は、<大下尚一他『アメリカハンディ辞典』p.56~60>を参照。