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アメリカ合衆国/USA

1776年独立を宣言した13州からなる連邦国家で世界史上最初の近代的共和制国家。領土を西方に広げ、19世紀中頃までに太平洋岸に達し大国となる。南北戦争の危機を克服し、豊かな資源と労働力を持つ資本主義国として急成長、第一次世界大戦後に覇権的な地位を占める。

・アメリカ合衆国 小項目目次

独立までの概要

 15世紀末のコロンブスの北アメリカ大陸到達以来、初めはスペイン人、その後、フランス人やイギリス人などヨーロッパから移住、入植した白人の移民は、東部の海岸地方を現地人インディアンから奪い、定住していった。北米大陸でのイギリス人の殖民の最初は1607年ヴァージニア、に始まり、最後の1732年ジョージアまでに13植民地が大陸東部の大西洋岸に形成された。この間、1620年には、イギリスでの宗教的迫害を逃れたピューリタン(清教徒)がメイフラワー号に乗ってプリマスに上陸した。彼らは新天地にコミュニティ(タウン)をつくり、インディアンとの交易などにも従事しながら内陸部にも進出していった。
 北米で白人の入植地が拡大するとともに、イギリスとフランスの入植者は次第に争うようになり、インディアンとの利害の対立も表面化した。英仏両国は、ウィリアム王戦争1689年~)・アン女王戦争1702年~)・ジョージ王戦争1744年~)・フレンチ=インディアン戦争1754年~)とたてづづけに植民地戦争を戦った。
 イギリスはおおよそこれらの戦争を優位に進め、植民地を拡大していったが、同時に戦費がかさみ財政が苦しくなると、その戦費負担を植民地側に押しつけるようとした。それはさまざまな植民地に対する課税となったため、植民地側は強く反発するようになった。植民地側に「代表なくして課税なし」の声が強まり、1773年にはボストン茶会事件が起こり、翌1774年には13植民地の代表がフィラデルフィア集まり大陸会議を開催して、本国との対立は決定的となった。
 ついに1775年アメリカ独立戦争が勃発、独立派は1776年独立宣言を行った。独立宣言が正式に公布された7月4日がアメリカ合衆国の独立記念日とされている。
 独立戦争は植民地側にとって苦しい戦いであったが、国際的な情勢が有利に働く中、1777年に大陸会議でアメリカ連合規約を採択して国号を「アメリカ合衆国」United States of America(USA)とし、各州の批准を受けて1781年3月に発効させた。それによって大陸会議に連合会議が国家の最高機関となったが、まだ建保も統一政府も発足していなかった。独立戦争は1781年10月までに勝利を実現し、イギリスも1783年パリ条約で独立を承認、独立戦争はアメリカの勝利に終わった。アメリカという呼称についてはアメリゴ=ヴェスプッチの項を参照。

アメリカ独立革命としての意義

 アメリカ合衆国は、世界史上、初めて最初から国王や貴族のいない、共和政の連邦国家として成立、イギリス植民地支配からの解放を実現しただけでなく、市民=ブルジョワジーが権力を掌握した国家として誕生したので、単なる独立戦争としてではなく、アメリカ独立革命として捉えなければならない。それは、次にヨーロッパで起こるフランス革命に続く、ブルジョワ革命の一環であった。また、大西洋をはさんでイギリスでは産業革命が進行しており、同時に、アメリカの独立はラテンアメリカの独立にも大きな影響を与えたたので、これら一連の動きを大西洋革命と捉えることもできる。

建国時の矛盾

 アメリカ合衆国は、独立当初はその存続も危ぶまれる脆弱な連合国家にすぎず、しかも領土は大陸の東海岸の南北に延びる狭い範囲でしかなく、北にはなおもイギリス領に留まっているカナダ、西には広大なフランス領ルイジアナ、南にはスペイン領テキサス、フロリダなどがあり、ヨーロッパ列強に取り囲まれていた。ヨーロッパ列強からみれば、生まれたてのアメリカ合衆国は、これからどうなるかわからない弱小国に過ぎなかった。つまり、建国期のアメリカを、20世紀の大国アメリカと同じだったと勘違いしないようにしなければならない。
 アメリカが大国になるのは、その西部に広がる広大な土地に領土広げ、ヨーロッパやアジアの旧世界と異なる厖大な資源を獲得することとなってからのことであった。しかしそのアメリカ合衆国が大陸に領土を拡張していく過程は、インディアンから土地を取り上げ、南部における植民地時代からの黒人奴隷を労働力としたタバコ、綿花などの大農園が大きな富を生み出した時代であり、インディアンと黒人奴隷の犠牲によって繁栄を遂げていったといえる。
 さらにアメリカ合衆国が、大国として世界史上に重要な存在となるのは、国家分裂の危機であった南北戦争を克服し、北部主体の工業国としてイギリスを追い抜いてゆく、19世紀後半のことであった。アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国の干渉を嫌い、孤立主義をその外交姿勢の伝統としてもっているが、20世紀の大国化したアメリカは、国際政治の中でのイニシアティヴをとらざるを得ない立場に立っていった。 → アメリカ独立革命 アメリカの外交政策 大西洋革命

アメリカ合衆国(1) 合衆国の成立

独立宣言から独立達成へ

独立戦争と独立宣言 北アメリカ大陸の東部イギリス領13植民地は、1775年アメリカ独立戦争に立ち上がり、ワシントンを独立軍司令官として戦い、1776年7月4日に大陸会議はジェファソンの起草した独立宣言を採択した。当初はフィラデルフィアに召集された大陸会議が最高議決機関であり、実質的な政府の役割を果たした。13植民地はそれまでの植民地議会に代わり、次々と独自の統治機構を造り、東部に13の共和国(states =「邦」、1789年の合衆国憲法成立後は「州」の字を充てる)が成立した。
アメリカ連合規約 翌1777年に大陸会議で制定されたアメリカ連合規約は「アメリカ合衆国」を国号とする国家連合を発足させることを決定した(1781年3月に発効)。アメリカ連合規約によってそれまでの大陸会議に代わり、各邦の代表を1票として構成される連合会議が発足し、他国との宣戦・講和、条約締結などの外交権が付与されたが、徴税権や徴兵権は各邦が持っていたので、強力な中央政府とは言えなかった。
独立戦争の勝利 アメリカはフランスの参戦やロシアの武装中立同盟政策に助けられて国際的に優位に立ち、独立戦争も次第に戦局を転換、1781年のヨークタウンの戦いで勝利を占め、ついに1783年パリ条約イギリスはアメリカの独立を認めた。この頃イギリスは、まさに産業革命の渦中にあった。

アメリカ合衆国憲法の制定

アメリカ合衆国憲法 その間、アメリカ国内では連合国家であるものの、統一的な憲法の下で、強力な中央政府(連邦政府)が必要であるという意見が次第に強まり、1787年5月憲法制定会議が発足し、同年中にアメリカ合衆国憲法が制定され、9邦が批准して1788年6月21日に正式に発効した。これによってアメリカ合衆国は立憲主義と民主主義を原理とし、三権分立による共和政をとる国家として確立した。
 従来の連合会議に代わって、アメリカ大統領を主とした連邦政府が外交、徴税、軍隊をもつ強力な中央政権として発足すこととなり、従来の邦(ステーツ)は「州」という位置づけとなった。しかし、連邦政府の権限を強化すべきであるという「連邦主義」と、州の独立性を維持、強化すべきであるという「州権主義」(反連邦主義)の意見も対立も憲法制定会議の段階から根強くあり、発足後のアメリカ合衆国の中の対立軸となっていく。
権利章典の追加 また、合衆国憲法には人権規定を欠いていたことが批准に当たって反対派の論拠となった。そこで1789年に発足したアメリカ連邦議会はその検討に入り、政教分離、信教・言論・結社の自由などを盛り込んだ憲法修正1条~10条を制定、これらの条項は権利章典として各州の批准を得て1791年12月15日に発効した。
初代大統領の就任 1789年4月30日、ワシントンが初代大統領となってアメリカ合衆国は実際の歩みを始めるが、その年は、ヨーロッパにおいてフランス革命が勃発した年であった。このとき、最初の首都はニューヨークに置かれた。

「邦」と「州」

 アメリカ合衆国を構成するステーツ state は、13植民地から始まり、独立戦争の過程でそれぞれが独立した共和国でなっていったが、1777年に制定され、1781年3月に発効したアメリカ連合規約からは、連合会議に外交権を委譲したかたちとなり、1788年6月に発効したアメリカ合衆国憲法からは徴税権や徴兵権も連邦政府に与えたので、主権国家ではなくなった。その間、同じステーツということばが使われているので、わかりずらいが、日本では1777~87年のステーツを「邦」と表現し、88年の合衆国憲法発効後を「州」として区別するのが一般的のようだ。なお日本では明治以来「合衆国」という文字を当てているが、意味からすれば「合州国」と言うべきであろうという議論もある。しかし、現在では「合衆国」が定着しており、また国王や貴族のいない、民衆(人民)の協力で成り立つ国家という意味を込めるならそれでもよさそうだ。
 1783年のパリ条約で独立が認められたのは名前こそ「合衆国」であったが、まだ一つの国家としての憲法も持たぬままの、13の独立国家(邦)が寄り集まった集合体に過ぎなかった。この後、合衆国憲法制定の過程で、強い中央政府のもとで統一国家となっていくべきなのか、それとも「邦」の独立した主権を維持し中央政府の力はできるだけ小さくすべきなのか、という国家観の対立が続き、その対立を止揚して成立したのがアメリカ合衆国憲法であった。その後、合衆国の領土がアパラチア山脈を越えて西に広がり、州は漸次増加してゆき、19世紀半ばまでに太平洋岸に達し、現在はハワイ、アラスカを含め、50州となっている。
州の権限 アメリカ合衆国憲法は連邦主義をとり、連邦政府を樹立した。従来の「邦」の名称は state のままであるが、これ以降は日本では「州」と呼んでいる。連邦政府には通貨発行、課税、軍事、外交などでは大きな権限が認められたが、州にも反連邦主義者の主張も採り入れ、広範囲な権限が与えられた。日本と大きく異なる州の自治権には次のような事項がある。
  • 教育は各州が行うこととされ、連邦政府には日本の文部科学省に該当する省庁はない。教科書も全国共通ではなく全米レベルの検定制度もない。教科書の採択は州政府に委譲されており、さらに州内の学区(スクール・ディストリクト)単位で決定される。これは、学校教育は国家が行うものではなく、住民が自分たちの手で行うという理念と伝統に基づいている。
  • 選挙も州によって違う。投票権は憲法で保証されているが、選挙権登録は州に裁量権があり、州によっては写真付きの身分証明書が必要な場合があり、運転免許証で代用できるところもある。アメリカ大統領選挙の選挙人選出も、多くは「総取り方式」であるが実際の投票率で配分される州もある。この複雑な選挙制度のため、アメリカではたびたび大統領選挙の結果をめぐって紛争が起きる。
  • 税と軍は連邦政府の管轄であるが、州も独自の権限を有している。国民所得税は連邦政府が決定するが、各州・各市は個別の税金を課す権利を有する。米軍は大統領・連邦政府の統轄下にあるが、州には州兵がいる。
  • 警察も州が管轄しており、パトカーも州ごとにデザインが異なる。州を超えた事件に対応するのがFBI(連邦捜査局 Federal Bureau of Investigation 1908年、司法省の下に設けられた)である。

アメリカ国旗「星条旗」

 アメリカ植民地の独立戦争中に、いくつかの「大陸旗」が掲げられていたが、1777年6月14日に大陸会議が「星条旗」を採用した。この星条旗は、フィラデルフィアの旗職人、ベッツィ・ロスが考案したとされており、ワシントンの推薦で、国旗とされた。星の数は州が加わる度に増やされ、現在は50個となっている。 → アメリカ国旗「星条旗」

出題 2007年 センターテスト本試験

 22問 アメリカ合衆国として独立した13州に含まれないのは次のどれか。
 1.マサチューセッツ  2.ニューヨーク  3.ヴァージニア  4.フロリダ

 解答  

合衆国首都の変遷

 独立戦争勃発時の独立派の中枢は大陸会議であり、それはフィラデルフィアに置かれていた。1789年4月30日の連邦政府発足時には、最初の首都はニューヨークに置かれ、1790年からはフィラデルフィアに移った。その間、新首都の建設が決まり、1800年に完成し、初代大統領の名前を付けたワシントン特別区(コロンビア特別区=DC)となった。ワシントンの市街は第2次独立戦争と言われた1812年のアメリカ=イギリス戦争では一時イギリス軍によって破壊されるということもあったが、その後、現在の大統領官邸ホワイトハウスも再建され、現在に至っている。

Episode 初代閣僚の半数は30歳代

 初代アメリカ大統領となったワシントンは57歳、副大統領にはマサチュセッツのジョン・アダムズ。国務長官にジェファソン、陸軍長官にノックス(39歳)、財務長官にハミルトン(32歳)、郵政長官にサムエル・オズグッド、司法長官にランドルフ(36歳)と、閣僚の半数近くが三十代だった。連邦最高裁判所の首席判事にはジェイが任命された。行政省庁の官僚機構は、本省が最大の財務省でも39人の本省職員と1000人前後の徴税人と税関職員、陸軍省も5人の職員と約3000人の軍隊、国務省に至っては4人の職員と一人の通訳がいるにすぎなかった。‥‥1801年の時点でも130人にとどまっていた。連邦政府が中央政府としてきわめて規模の小さい「アメリカ型国家」であったことが明らかであろう。<五十嵐武士『世界の歴史』21(中央公論社)p.162>

フェデラリストとリパブリカン

 1789年2月、最初の大統領選挙が行われ、ワシントンが初代のアメリカ大統領に選出された。彼は大統領を2期務めたが、長期政権化を自ら否定して3期目は立候補せず引退した。その間に、合衆国憲法制定過程で明らかとなっていたフェデラリスト(連邦派)とアンチ=フェデラリスト(反連邦派)の意見の対立がより深刻となり、それぞれが党派を結成し(ただしこの段階では「政党」組織があったとは言えない)、それが後のアメリカの政党政治における二大政党への形成へと向かう源流となった。
フェデラリスト 前者の指導者は財務長官であったハミルトンであり、連邦政府のもとで中央集権的な秩序を築き、そのもとでアメリカの商工業を発展させことを主張し、東海岸の都市エリートを支持基盤としてフェデラリスト(連邦党)という党派を形成、大衆の政治参加には否定的であった。フェデラリストは第3代アダムズ大統領まで、建国期の主導権を握っていたが、西部開拓などによて増加した農民層は、権威的なフェデラリストの姿勢を嫌い、連邦主義に対して州の自治を重視する共和派(リパブリカン)にまとまっていった。1800年の大統領選挙ではフェデラリストである現職のアダムズが、リパブリカンのジェファソンに敗れ、その後急速に衰退し、党派としての組織は消滅する。
リパブリカン党 反連邦派の指導者は国務長官ジェファソンであり、中央政府の統制をきらい、各州の権利を重視し、南部や西部の自立した開拓者を主な支持基盤としていた。ジェファソンらは1791年にリパブリカン党(共和派)を結成した(これも厳密には政党とは言えないという違憲もあり、その場合は共和派といわれる)。彼らは、大衆の参加による開かれた政治を求めて1800年にジェファソン政権を誕生させ、その後、マディソン、モンロー、J.Q.アダムズとリパブリカン党大統領が続いた。

1800年の革命

 1796年の大統領選挙では第3代大統領にはフェデラリストのジョン=アダムズが、副大統領にはリパブリカン党のジェファソンが当選した。この頃は現在のような正副大統領をペアで選出するのではなく、各選挙人は複数の大統領候補者の中から二名に投票し、最多得票者が大統領、次点が副大統領となる決まりだったためである。
 1800年12月の大統領選挙では、激しい選挙戦の結果、リパブリカン党のジェファソンが当選、政権の支持基盤が建国以来の東部エリート層からはじめて西部を含めた農民層に移ったので、当時は「1800年の革命」と云われた。ジェファソンは1801年の大統領就任式でそれまでのような大統領官邸から議会まで馬車で行くのではなく、歩いて行くなど、庶民性をアピールした。ジェファソン政権は連邦政府の権限縮小、州権の拡大に努め、今風で云えば「小さな政府」をめざした。
 しかしジェファソンは、外交ではヨーロッパのナポレオン戦争では中立的な立場をとり、1803年にはナポレオンとのルイジアナ買収の協議では現実路線を取り、1500万ドルという格安価格で買収を実行して領土を約2倍に広げた。さらにルイスとクラークをアメリカ大陸北西部探検に派遣し、国土の太平洋岸到達を準備した。このように、連邦政府の権力強化には否定的であったジェファソンであったが、領土拡張では積極策を採り大国化をめざしたことは後のアメリカ合衆国の性格を考える上で興味深い。 → アメリカの外交政策

アメリカ合衆国(2) 米英戦争と領土の拡大

アメリカ合衆国は、独立直後に始まったフランス革命以降のヨーロッパの内戦に対しては中立政策をとった。しかしナポレオンの大陸封鎖令に対抗してイギリスがフランスを逆封鎖したためアメリカの貿易が妨害されると、反英感情が高まり、1812年に米英戦争が起こった。この戦争を機に、アメリカは国家意識を強めるとともに国内産業の自立の動きが強まった。ナポレオン没落後のヨーロッパのウィーン体制時代にはモンロー宣言を出してヨーロッパに対する不干渉の姿勢を明確にすると共に、アメリカ大陸での主導権を得て、大陸での領土拡張を推進した。その領土はアパラチアを越え、西方に拡大し、19世紀中頃までに大西洋岸に達した。

米英戦争(1812年戦争)

 ワシントンが初代大統領に就任した1789年は、フランス革命が勃発した年でもある。それ以降、ヨーロッパにおいては革命に対する干渉戦争と、その後のナポレオン戦争でも中立を維持し、イギリス・フランスの双方との貿易を継続していた。 → アメリカの外交政策
 1806年、ナポレオンが大陸封鎖令を発すると、イギリスは対抗措置としてフランスのアメリカとの貿易を妨害したので、アメリカにとっては大きな打撃となった。アメリカはイギリスの通商妨害によって中立を維持することが困難となり、議会にも対英戦争を主張する主戦論者(タカ派)が台頭、大統領マディソンのもとで、1812年米英戦争(1812~14)に踏み切った。
戦争の背景と展開  米英戦争の口実はイギリスによる貿易妨害、公海上のアメリカ人の強制徴用、インディアンへの武器供与などにたいする反発であったが、背後にはナポレオン戦争中のイギリスの弱体化につけ込み、カナダやフロリダなどに領土を広げようという西部や南部の勢力の領土的野心があった。しかし、アメリカ軍の準備不足もあり、イギリス軍の反撃を受け、一時は首都ワシントンをイギリス軍が焼き討ちするなど、不利な戦いとなった。また、インディアン諸部族はアメリカ合衆国の膨張を恐れていたためイギリス軍を支援した。アメリカはイギリスとの戦争の傍ら、インディアンに対する攻勢を強めた。1814年にナポレオンが没落したことを受け、戦争は講和したが、その知らせが届く前にジャクソン将軍の率いるアメリカ軍がミシシッピでイギリス軍を破り、アメリカ人は戦争に勝ったという意識を持ったが、実際には勝敗のつかない終結であった。
ナショナリズムの高揚と産業・経済の自立 米英戦争は、アメリカ側が仕掛けた第二次独立戦争とも位置づけられる戦争であった。当初は無意味で、無謀な戦争であるとの非難も強かったが、イギリスと互角に戦う中でアメリカ人の国家意識(ナショナリズム)がめばえ、またイギリス工業製品が入ってこなくなったことからアメリカ産業がイギリス依存体質を脱却して、経済的な自立がはかられることとなった。同時にこれを機にインディアンの土地を奪って西方への発展の足がかりをつかんだことも重要である。

Episode 米英戦争から生まれたアメリカ国歌

 1814年8月、イギリス軍はワシントンを攻撃し、焼き払った。アメリカ大統領マディソン以下はヴァージニアの山間部へ疎開した。勢いついたイギリス軍はボルティモアに攻め込んだが、そのマックヘンリー要塞でアメリカ軍は25時間にわたる激戦の末、イギリス軍を撃退した。マックヘンリー砦の夜明けの空に星条旗が掲げられたのを、海上のイギリス艦船から眺めていたアメリカ人弁護士がいた。彼、フランシス・スコット・キーはアメリカ軍捕虜の釈放嘆願のため乗り込んでいたのだった。要塞の上にはためく星条旗を見たキーは大いに感動し、「マックヘンリー要塞の防衛」という詩を詠んだ。この詩が、そのころアメリカ人が宴会で歌っていた「天国のアナクレオンへ」という曲にのせて歌うと、妙にノリが良いことから評判となり、広く歌われるようになった。それが現在、アメリカ国歌として歌われる「星条旗」である。1889年にはアメリカ海軍が国旗掲揚時にこの曲を演奏、20世紀に入り、ウィルソン大統領が「国歌のように」取り扱うことを命じている。実は国歌として正式に定められたのは意外に遅く、1931年3月3日のことだった。第二次世界大戦中に愛国心を高揚させるために、大リーグなどプロスポーツの試合前に歌う事が慣習となった。ちなみに日本の「君が代」が国歌として制定されたのは1999年である。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.48-53>
 なお、アメリカ国歌「星条旗」The Star-Spangled Banner「星条旗よ永遠なれ」Stars and Stripes Forever という人がいるが、それは別な曲で、スーザが作曲した行進曲です。

領土の拡張

アメリカの領土拡張

アメリカの領土拡張

 東海岸のアパラチア以東の13植民地の後身である13州の連合国家として独立したアメリカ合衆国は、1783年の独立達成時に、アパラチアを越えてミシシッピ川以東をイギリスから獲得し、1803年にジェファソンはフランスからルイジアナを買収してミシシッピ以西に領土を広げ、西部進出を本格化させた。1812年の米英戦争ではインディアンがイギリスを支援したことを口実としてその土地を次々と収奪していった。
 1818年にはイギリスとの間でイギリス領カナダとの境界線を北緯49度とし、ロッキー山脈以西のオレゴン地方は米英の共同管理とした。南部では、1819年にスペインからフロリダを500万ドルで買収した。ミシシッピ川以西の南部の広大なスペイン領では、アメリカ人入植者が独立運動を起こして成立したテキサスを1845年に併合、それを機に米墨戦争に突入して、1848年にはカリフォルニアなどを獲得(買収)した。
モンロー教書 ヨーロッパはナポレオン戦争後のウィーン体制のもとでスペインやオーストリア、プロイセンなどのナポレオン戦争以前に強国だった君主国が勢いを取り戻す時期に入っており、それらの諸国は当時始まったラテンアメリカの独立に介入する姿勢を示し始めた。アメリカ合衆国のモンロー大統領は、1823年モンロー教書を発表してモンロー主義ともいわれる孤立主義の外交原則を示してヨーロッパ諸国との相互の不干渉とともに、南北アメリカ大陸をアメリカ合衆国の勢力圏とすることを表明した。 → アメリカの外交政策

ジャクソニアン=デモクラシーの時代

 1829年3月に就任したジャクソン大統領と、次のヴァン=ビューレン大統領の1830年代は、アメリカの民主主義が進展した時代とされ、それをジャクソニアン=デモクラシーの時代と言っている。ジャクソンは開拓農民の子で、軍人となり米英戦争と対インディアン戦争で活躍して名声を高め、はじめて西部出身者として1829年に大統領となった。かれは西部開拓農民、東部の農民を支持基盤として権力を握り、白人普通選挙制度の全州への拡張、公立学校の拡充などの政策を推し進めた。それを大統領の専制であると反発した東部の旧支配者層はホイッグ党を結成し、ジャクソン支持派は1832年5月民主党と称するようになる。この時代は、自立自衛、機会均等、平等主義などアメリアの「草の根民主主義」の気風が醸成された時代であったが、一方で黒人と先住民、そして女性に対する抑圧は依然として続いていた。
 ジャクソン大統領の時代に、西部開拓が本格化したが、それは1830年インディアン強制移住法制定にみられるように先住民インディアンの排除と抑圧によって推進されたのだった。

最初の二大政党時代

 ジェファーソン支持者の結成したリパブリカン党は、1828年には西部で台頭したジャクソンを支持するかどうかで分裂し、ジャクソン支持派は民主共和党(Democratic Republican Party)を名のり、反ジャクソン派は国民共和党(National Republican Party)と名のった。前者はジャクソン大統領を当選させ、いわゆるジャクソン民主主義の隆盛を背景に党勢をのばし、1832年5月21日民主党と改称、現在に至っている。また後者は1834年ごろからホイッグ党と称した。その名称は、ジャクソンを専制君主と見立て、かつて王政に抵抗したイギリスでホィッグ党にあやかったものであった。1840年の大統領選挙ではホイッグ党の推すハリソンが、ジャクソンの後継者の現役ヴァン=ビューレンを破って当選、それ以降、1860年に共和党のリンカンが当選するまでの20年間は、ホイッグ党と民主党が交替する二大政党時代となった。ホイッグ党と民主党はそれぞれ全国に支持者をもち、政権担当能力のある全国政党であった。 → アメリカの政党政治

西漸運動・「明白な天命」

 1840年代には領土の西部への拡大に伴い、東部の農民は新たな土地を手に入れようし、また資本家は土地投機のためにミシシッピ川を超えて西部に移住した。また南部の綿花プランターは、綿花栽培に適した土地を求めて西部開拓を進めた。このようなアメリカ西部への移住運動を西漸運動という。この間、開拓の進む最前線をフロンティアと称し、またアメリカ合衆国の西部への膨張は神から与えられた当然の権利であるという「明白な天命」の考えが現れた。こうして広大な土地と資源を獲得し、19世紀後半には世界の列強の一員となったが、その背後にインディアンからの土地の収奪があったことも忘れてはならない。

メキシコ領の簒奪

 この間、北米大陸に広がるメキシコ(1821年に独立)領にもアメリカ人は次々と移民として移り住んでいった。テキサスではアメリカ人移民が多数を占めるにいたり、1836年にテキサス共和国を独立させ、アメリカへの併合を求めた。テキサスの抗議と反撃を軍隊を派遣して押さえ込んだ第11代大統領ポーク(民主党)は1845年にテキサス併合を宣言した。翌年からからアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)が勃発、勝利したアメリカは48年、カリフォルニア・ニューメキシコを獲得した。さらに46年にはイギリスとの交渉によりオレゴンを獲得し、急速に国土を広げ、太平洋岸にまで達した。
 これらは民主党とその支持者である西部・南部のプランター(大農園主)たちの推し進める膨張主義に対して、ホイッグ党リンカンらの抵抗があったが、戦争批判は非愛国者であるという世論によってかき消された。

ゴールド=ラッシュ

 1848年カリフォルニアを併合したが、その年、その地で金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まり、翌49年を最高潮とする、西部への開拓者の大移動が展開された。こうしてアメリカの支配圏は北アメリカ大陸の太平洋岸に進出し、東西海岸にまたがる広大な領土を有する国家となった。さらに太平洋への進出へとつながることになり、それが1853年のペリー艦隊の日本への派遣、そして翌年の日米和親条約締結による日本の開国となる。 → 1848年革命

アメリカ合衆国(3) 南北戦争

アメリカの北部と南部の産業構造の違いから、南北の対立が顕在化し、特に領土が拡大され新たな州が生まれていく課程で、黒人奴隷を認めるか認めないかが国論を二分するようになり、1850年代には決定的な対立軸となっていった。

奴隷制を巡る南北対立

 アメリカ=イギリス戦争が終結し、アメリカ合衆国は統一国家としての意識を強めていったが、1820年代以降は、北部諸州と南部諸州の産業構造の違いが次第に明確となり、さまざまな点でアメリカの南北対立が表面化していった。北部は工業化が進み、自立的な経済成長をとげつつあったので、保護貿易を主張し、国内市場の発展のためには連邦主義をとった。それに対して、南部の諸州は、綿花プランテーションがイギリス経済に依存する中、自由貿易州権主義が根強かった。
 特に大きな対立点となったのが、黒人奴隷制の問題であった。建国時の13州でも、北部には早くから黒人奴隷制反対の声が強く、各州は奴隷制を認めない自由州となったが、南部の各州は黒人奴隷制を認めることを条件に連邦に加盟したこともあり、その維持は不可欠と考えられ奴隷州となっていた。さらに綿花のイギリスへの輸出が増大するに伴い、プランテーションにおける黒人奴隷労働は不可欠なものと考えられるようになった。
 ただし、北部においては黒人奴隷制に反対の声は強かったが、即時廃止を主張するのは少数で、多くは黒人奴隷制の拡大に反対なのであって、当面南部諸州がそれを維持することは容認し、漸進的に廃止にむかえばよい、というのが主流であった。ワシントンやジェファーソンなど、建国時の指導者の多くもそう考えていた。しかし、アメリカ合衆国の領土が拡大していくなかで、次々と州が加えられていくに従い、奴隷制拡大かどうかが問われるようになっていった。
政党の内部分裂 南北の地域対立は、当時の二大政党であった民主党ホイッグ党の内部にも現れた。民主党は奴隷制度の可否を住民投票で決めることを主張する北部民主党と、奴隷制度をそのまま維持、拡大していこうとする南部民主党が分裂した。ホイッグ党は奴隷制を認めない北部の党員は、奴隷制反対を掲げて1854年に結成された共和党に合流し、奴隷制度容認派は南部民主党に加わった。こうして政党が分裂してそれぞれ地域政党化してしまい、全国レベルで利害を調整する機能が失われてしまった。

ミズーリ協定からカンザス=ネブラスカ法へ

 新しく州に昇格(男性人口6万で州に昇格)するとき、奴隷州にするか、自由州にするかが大きな問題となり、1820年にはミズーリ協定が成立して北緯36度30分以北には奴隷州を造らないという合意が成立した。
 1846年に始まったアメリカ=メキシコ戦争の結果、1848年にアメリカ領となったカリフォルニアが州に昇格するとき、自由州するか奴隷制にするかが問題となって「1850年の妥協」が成立し、1850年9月、カリフォルニアを自由州とするが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるとされ、またワシントンDCでは奴隷制が禁止された。しかしその代わりにより厳しい逃亡奴隷法が制定されて奴隷の自由州への逃亡は厳しく取り締まられることとなった。1852年にはストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷の待遇への批判が北部で巻き起こり、奴隷制反対運動が活発になった。
 南部のプランターを支持基盤とする民主党は、巻き返しを図り、1854年カンザス・ネブラスカ法を成立させ、その結果ミズーリ協定が破棄され、北緯36度30分以北のこの二州でも住民投票で決定するとなった。
共和党の結成 それに反発した北部の奴隷制反対論者は、1854年7月、ただちに共和党を結成してそれに対抗しようとした。1856年にフィラデルフィアで正式に全国大会を開き、独自の大統領候補を立てた。このときは敗れたが、翌57年にはドレッド=スコット判決で最高裁が黒人の権利を否定する判決が出されて、奴隷制反対派はさらに危機感を強め、共和党は結束を強めていった。

南部の分離と南北戦争

 こうして奴隷制問題は独立後間もないアメリカ合衆国にとって国論を二分する大問題となり、1860年11月の大統領選挙で奴隷制拡大反対の共和党のリンカンが僅差で当選すると、南部諸州は合衆国を離脱してアメリカ連合国を造り、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。ついにアメリカは南北に二分され、翌1861年に南北戦争が勃発する。

アメリカの南北対立

 南部と北部の対立には、黒人奴隷制問題だけでなく、いくつかの争点があった。その産業構造では、南部は黒人奴隷制による綿花プランテーションを中心とした農業地域であり、生産する綿花はイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入するという関係にあったので、イギリスの自由貿易に依存していた。北部は商工業の盛んな都市を中心に、繊維産業や機械、鉄鋼業などでイギリスと競争しており、自国産業を保護するための保護貿易を主張していた。また労働力の不足を補い、国内購買力を高めるためにも奴隷制廃止、もしくは縮小を主張していた。
 また政治体制においては、南部は連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦主義を主張し、北部は産業国家として統一が望ましいので、連邦政府の権限を拡大する連邦主義が有力であった。政党としては民主党は大農園主層の支持を受けて南部で有力で、それに対して北部産業資本家の支持を受けた共和党が新興勢力として登場していた。

南北戦争

 1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃から戦争が始まり、当初は南軍がイギリス・フランスの支援もあって優勢であった。しかし、経済力に勝る北部が次第に挽回し、1863年1月1日に出されたリンカンの奴隷解放宣言は、国際的にも戦争の大義が北部にあると受け取られて英仏の干渉を失敗させ、さらにホームステッド法の施行が西部の農民の支持を受けて情勢は逆転した。1863年7月ゲティスバーグの戦いで北軍が大勝し、最後は北軍のグラント将軍が南軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落、1865年4月9日にリー将軍が降伏して南北戦争は終結した。南北戦争は南北両軍で62万という死者を出す大戦争であり、アメリカ人の死者数は第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万よりも多かった。しかし集結のわずか5日後、1865年4月14日にリンカンが暗殺され、戦後の再建に向けて混乱が起こった。

戦争の意義

 南北戦争が北軍の勝利によって終わったことにより、アメリカ合衆国の統一が維持強化されることとなった。また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされ、アメリカ市民社会にとっては大きな前進であった。南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点となり、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていくこととなる。

その後の黒人差別問題

 しかし、戦争の最大の要因であった黒人奴隷制問題は、1865年1月に憲法修正第13条が連邦議会で可決され、戦争終結後の1865年12月18日に各州の批准によって発効し、正式に黒人奴隷制は廃止され、黒人奴隷は制度としては解放された。しかし、黒人の多くは経済的な自立にはほど遠く、シェアクロッパーと云われる小作人となったものが多く、依然として貧困状態は続き、そのような境遇のゆえに黒人差別はなくならなかった。

「再建」と南部の復興

 南北戦争後の南部の「再建」Reconstruction は議会で優勢だった共和党急進派の主導で行われ、苛酷な内容だった。議会は1865年12月に憲法修正第14条を発効させて黒人に市民権を付与し、翌67年には「再建法」を成立させ、南部諸州を5つの管区に分けて連邦軍を駐留させる軍政を敷き、憲法修正第14条の批准や反乱同調者の追放を復帰の条件とした。さらに1870年には憲法修正第15条を制定して、黒人投票権に制限を設けてはならないと定め、これも南部諸州は承認した。
 連邦軍の駐留という北部による軍事支配のもと、北部人が南部に入り込んで、黒人奴隷の解放の業務や大プランターの土地没収などにあたり、しばしば南部人との間でトラブルが起こった。南部の白人の一部には、黒人への人種差別意識を捨てきれず、憎しみを解放された黒人にぶつける秘密結社クー=クラックス=クランが生まれた。
再建期の終わり 南部の民主党は連邦軍の撤退を要求、北部を基盤とする共和党との対立がきびしくなる中、1876年の大統領選挙は民主党のティルデンと共和党のヘイズの争いとなり、決着がつかずに議会で裁定することになった。このとき、共和党は連邦軍を南部から撤退させる代わりに民主党の大統領当選を認めろ、と持ちかけ、民主党がそれを受け入れるという「1877年の妥協」が成立し、1877年4月、南部に駐留していた連邦軍が引揚げ、南部諸州の「再建」の時代が終わった。
合法的な黒人差別の復活 南部諸州で復権した民主党は、徐々に州による黒人差別立法を復活させていった。それは黒人取締法などで合法的に選挙権の実質的剥奪、教育権の不平等などを定めた物で、公民権の上で白人と大きな格差が生まれることとなった。その他の社会的不平等に対する黒人の不満も次第に強くなっていったが、1877年の再建期の終わりによって復活した合法的黒人差別は、その後、第二次世界大戦後の公民権運動の高揚によって、1964年に公民権法が成立するまで、百年近く続くこととなる。

二大政党の時代へ

 共和党は軍政が布かれた南部で、選挙権を得た黒人の熱烈な支持を受けて勢力を拡大し、南北戦争前は北部の地域政党に過ぎなかったものが、戦後は全国政党へと成長した。一方、民主党も大きな打撃を受けたとは言え、奴隷制度が廃止されたことで南北の対立要因がなくなり、しかも北部で共和党の恩恵を受けていなかった都市の労働者層や移民に支持を訴え、一つの全国政党として復活した。こうして南北戦争を契機に、アメリカは共和党と民主党のそれぞれが全国政党として合衆国の政治全般に責任を持つ態勢を作り上げ、本格的な二大政党の時代に入ることとなった。
 同時に、二つの政党は黒人奴隷制問題という対立点がなくなったため政策で競い合う本来の機能は弱くなり、政党の役割は選挙で権力を得るための得票マシーンとなっていった。これがアメリカの政党の特色となっている。
金ぴか時代 南北戦争後、北部主導で工業化が進み、企業家は自由競争で経営規模の拡大を進めた。かれらは、資本・市場の独占に有利な政策を政治家に期待し、政治家と金銭的に結びついた。東部産業資本家は元々は共和党との関係が強かったが、反対党の民主党にも賄賂の手を伸ばした。さらにアメリカ独特のスポイルズ=システム(大統領が支持者から官吏を任命する)が続いていたこともあって、汚職が頻発するようになった。一般社会でも、何事も金で解決しようという風潮が広がった。1873年、小説家マーク・トウェインらは、「金ぴか時代」を発表し、そのような社会の風潮を鋭く批判した。

アメリカ合衆国(4) アメリカ帝国主義

南北戦争での分裂の危機を克服し、北部主導の工業化が進捗し、アメリカ資本主義での独占資本の成長が顕著となり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて帝国主義段階に入った。アメリカ帝国主義は米西戦争、ハワイ併合など海外領土拡張ということに現れている。

工業力の急成長

 アメリカ合衆国は南北戦争の危機を北軍の勝利で終わらせて、国家の統一を維持、というより初めて一つの国家としてのナショナリズムを獲得し、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設を進めた。この時期は、アメリカのフロンティアの消滅の時期とも重なっており、90年代からは海外領土の獲得に向かうこととなる。
 アメリカの工業生産は、1880年代からイギリスを抜いて世界一の地位を占めるようになっており、この間、資本主義は第2次産業革命を迎えて重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車などの工業で巨大な資本を必要とするようになった。それは独占資本の形成を促し、資本主義経済はいわゆる帝国主義の段階を迎えた。
 その中で、ロックフェラーカーネギーモーガンなど、一代で財を築く大財閥が出現し、これらの巨大資本の政治への圧力も強まった。
工業化を支えた黒人と移民 このようなアメリカの急速な工業化を支えた労働力は黒人奴隷制の廃止によって産み出された黒人労働者の低賃金、さらに苦力(クーリー)といわれた中国系労働者などの移民に支えられていた。特に中国人移民は1860年代の大陸横断鉄道建設での労働力となったが、70年代になると白人労働者の仕事奪う存在ととらえられて排斥されるようになり、1882年中国人労働者移民排斥法が制定された。19世紀末になると、ヨーロッパからは北欧系の移民に代わって東欧・南欧系の移民が増加し新移民と言われるようになり、アメリカ合衆国はますます多人種国家となっていった。
ポピュリズム 60~70年代、共和党と民主党の二大政党が競う状況が続いていたが、黒人奴隷制は廃止されたことで決定的な政策に違いはなくなり、両党とも資本家や法律家などのエリートとの結びつきを強くしていった。しかし、80年代に入ると急速な工業化は南部や西部の農民、さらに都市の労働者がしわ寄せに苦しむようになった。彼らは工業の発展、鉄道の普及などの社会の進歩から取り残されている意識を強く持つようになり、西部と南部の農民組織と東部の労働者組織が結束し、1892年に人民党(ポピュリスト党)を結成した。これは二大政党に対する第三党として、新しい勢力を代表し、大統領選挙に独自候補を立てた。富裕層やエリートではない、大衆を支持基盤とするこの動きは、ポピュリズムとも言われて注目された。しかし、1896年の選挙で人民党は独自候補を立てず、民主党候補を応援したが、共和党のマッキンリーに敗れ、その勢いは弱まって民主党に吸収されていった。
膨張主義と革新主義 南北戦争後のアメリカは北部主導の第二次産業革命をすすめて重工業化を達成した。同時に財閥を形成しようという独占資本への富の集中と、西部・南部の農民層と東部の労働者層との格差の拡大は、新たな国家の分裂の危機と意識されるようになった。その矛盾の解決としてアメリカ合衆国が選んだのは次のマッキンリー大統領、セオドア=ローズヴェルト大統領の対外政策に観られる膨張政策であった。その一方で、国内では独占資本の力を制限して社会の均衡化を図らなければならなかった。1890年シャーマン反トラスト法に始まる独占制限立法の試みとそれに続く革新主義といわれる政策である。膨張政策と革新主義という一見矛盾するように見える政策が一体となって進められたのが19世紀末から20世紀初頭のアメリカ合衆国であった。しかし、合衆国の国家としての一体性を強化しようとするとき、白人社会の結束を図るために採られたのが、南部における黒人分離政策という形の新たな黒人差別の法的復活であり、北部のアメリカ人によるその事実上の黙認であったともいえる。

帝国主義の伸張

 一方で1890年にはフロンティアも消滅し、アメリカは海外にその領土を拡げることとなった。
マッキンリー大統領 共和党マッキンリー大統領の時、1898年米西戦争は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカはプエルトリコフィリピングァムを領有し、キューバ独立を認めさせた。キューバにたいしてはその独立を支援しながら、プラット条項という実質的な保護国化する憲法修正条項を押しつけた。また同じ時期にハワイを併合した。1899年にはフィリピン=アメリカ戦争フィリピンを領有したのもアジア市場への進出をねらってのことであり、おりから東アジアで台頭した日本、およびアジアへの進出をめざすロシアとの競合がはじまり、中国市場での出遅れを解消すべく、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放等を要求することとなった。
セオドア=ローズヴェルト大統領 1901年9月6日、マッキンリー大統領がアナーキストに暗殺され、副大統領のおなじく共和党セオドア=ローズヴェルト大統領が就任した。セオドア=ローズヴェルトは帝国主義政策を継承し、特にカリブ海政策を積極化し、棍棒外交といわれる強圧的な進出を図った。実質的に保護国化したキューバへの資本投下を進め、軍事基地を建設した。またパナマ共和国をコロンビアから強引に独立させ、パナマ運河の権利を獲得した。 → アメリカ帝国主義の外交政策
革新主義 しかし、共和党のセオドア=ローズヴェルト大統領は国内政治においては独占資本の形成に伴う矛盾の解決にも積極的であり、資本主義本来の自由競争を阻害するので、独占を抑制する反トラスト法などの制定も行い、その姿勢を革新主義と標榜した。1912年の大統領選挙では共和党から離れて革新党を結成して出馬したが、民主党のウィルソンに敗れ、革新主義は後退した。

アメリカ合衆国(5) 第一次世界大戦への参戦

第一次世界大戦開戦時には中立を保ったが、1917年に民主主義の防衛を標榜して参戦し、大戦の終結に大きな役割を果たし、ウィルソン大統領は国際連盟結成などの戦後世界の新秩序形成を主導した。

 1914年7月28日第一次世界大戦の勃発に対し、民主党ウィルソン大統領はヨーロッパ諸国間の争いに介入しないというモンロー教書以来の孤立主義の伝統を守ることを公約としていたので、厳正な中立を表明した。アメリカにはドイツやイタリアからの移民も多かったので、参戦によって国論が分裂することを恐れたという現実的な理由もある。一方でウィルソンは、イギリス・ドイツ双方に特使を派遣して和平策を模索するなど、国際協調に乗り出す姿勢も示していた。 → アメリカ帝国主義の外交政策

中立から参戦に転じる

 しかし次第にドイツの好戦的な姿勢に対する国内の非難が強まり、特に1915年5月5月、ドイツの潜水艦によるイギリス船撃沈の際、多数のアメリカ人が犠牲になったルシタニア号事件をきっかけにドイツに対する敵愾心が強まった。ドイツは潜水艦による攻撃をいったんは手控えていたが、1917年2月に無制限潜水艦作戦として再開することを宣言、それを受け、ウィルソンは議会に対してドイツとの戦いを「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」と意義付けて参戦を提案し、議会は1917年4月6日にドイツに宣戦布告した(アメリカでは宣戦布告を決議するのは議会の権限である)。こうしてアメリカは第一次世界大戦に参戦し、伝統的外交姿勢である孤立主義(モンロー主義)を転換した。直接的にはドイツの無制限潜水艦作戦に対する反発が要因であったが、背景にはイギリス・フランスへのアメリカの工業製品の輸出がストップすることへの恐れと、もし両国がが敗北すればアメリカは莫大な資金援助を回復できなくなることを恐れたものと考えられる。

ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍

 アメリカ軍はヨーロッパに派遣され、主として西部戦線でドイツ軍と戦った。当初は32万程度の兵力であったが、最終的には200万に達し、アメリカ軍の参戦が第一次世界大戦の勝敗に決定的な影響を及ぼした。ドイツ軍の最高指揮官ルーデンドルフはアメリカ軍が戦線に投入されたことによって、戦線がドイツ国内に押し戻される前に降伏に踏み切った。一方、アメリカ軍の約200万の兵力のうち、実際の戦闘に参加したのは、ようやく1918年5月ごろからであり、1918年11月11日には大戦は休戦となったので、アメリカ軍の被害は最小限にとどめられた。
参戦に伴う変化  アメリカ合衆国は第一次世界大戦に参戦することによって、社会的に二つの面での変化が生じた。一つは禁酒法制定の動きであり、一つは女性参政権実現への動きであった。いずれも大戦前から運動は始まっていたが、前者は禁酒によって穀物を節約し前線の兵士に送る、あるいはドイツ系のビール醸造業に打撃をあたえるという主張によって正当化され、また後者は当初は反対していたウィルソン大統領も女性の戦争への貢献が必要であるという理由で賛成に転じて実現した。いずれも各州の批准という手続きに時間がかかり、成立したのは大戦終了後であったが、参戦を契機に大きく進展し、戦後の「戦間期」を規定する法改正となった。

ウィルソンの外交

 アメリカ合衆国の参戦は、第一次世界大戦の終結に決定的な意味を持っていた。ウィルソン大統領は参戦の大義名分を専制主義の国家グループに対する、民主主義・共和主義・自由主義を守る戦いとしていたので、その理念から、戦後の国際社会の基本原則を十四カ条として提示した。とくに国際連盟の提唱は、集団安全保障の原理による世界平和の維持という画期的な提言であり、同時にアメリカの外交政策の原則であった孤立主義を放棄する大きな転換であった。また彼は、無償金・無併合・民族自決の原理を提唱し、ロシア革命でのレーニンの出した平和についての布告に対抗しようとした。
 ウィルソンの理念は1919年1月から始まったパリ講和会議をリードしていったが、その協調姿勢は、フランスの報復主義によってねじ曲げられて敗戦国ドイツに対する過重な賠償金が課せられ、またウィルソンが提唱した国際連盟は世界最初の集団安全保障を図る国際機関として設立されたものの、アメリカ国内の共和党が多数を占める議会の反対によってアメリカは国際連盟に不参加となり、ウィルソンの意図と異なる結果となった。こうしてウィルソンは失意のうちに退任し、国内政治に目を向けるようになった国民の支持は、国際協調よりもアメリカの反英を優先する共和党の方に転じていった。

アメリカ合衆国(6) 戦間期のアメリカ

第一次世界大戦後、国際連盟には加盟しなかったが、特に1920年代に世界一位の経済大国として発展。しかし、その反動から1929年に世界恐慌となる。

債務国から債権国へ

 こうして19世紀末に帝国主義段階となったアメリカは、20世紀にはいると孤立主義の外交原則を維持しながら、第一次世界大戦を機に債権国に転じて世界経済の富を独占するという立場になった。
 ウィルソン民主党政権に代わったハーディング以降の共和党政権の下で、ドーズ案ヤング案によるドイツ賠償問題の解決やワシントン会議の開催、不戦条約の締結など、20年代の国際協調が主流となった時期にはその指導的役割を果たした。アメリカ経済は大量生産・大量消費の経済社会を出現させ、同じく20年代は永遠の繁栄といわれるたが、過度な投資や農作物の生産過剰などから、1929年に一挙に株が暴落、アメリカ経済の破綻が世界恐慌をもたらすこととなった。 → 戦間期のアメリカ外交

アメリカの1920年代

 第一次世界大戦を機に、世界的な女性の社会進出が進んだが、アメリカ合衆国においても1920年に女性参政権が実現し、民主主義が一段と徹底された。1920年代のアメリカは、共和党政権下の経済の繁栄がもたらされた時代。アメリカの国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんど無く、ひとりあたりの所得は30%以上増えた。こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 2002 中公新書など>
人種のるつぼ その反面、経済の繁栄は世界中から移民を引き寄せることになり「人種のるつぼ」化が進んだ。そのなかで従来のワスプ(WASP)といわれる西欧系の移民と、新移民といわれる東欧・南欧からの移民、さらにアジア系移民との間で格差が広がり、新たな対立が生じ、特に日露戦争頃から増加した日本人移民に対する排除の動きが強まり、1924年5月には移民法が制定された。これは南・東欧系ヨーロッパ人は数の上での制限であったが、日本人に対しては実質的な移民禁止という厳しいものであったので「排日移民法」ともいわれた。また、南部の黒人差別は事実上の黒人選挙権の剥奪と、いわゆる分離政策が平然と行われ、一旦沈静化していた白人至上主義者の秘密結社であるクー=クラックス=クランが1920年代に復活し、激しい黒人攻撃をくりかえしていた。

大量生産・大量消費・大衆文化

 20世紀前半、アメリカ資本主義は工業化が急速に増大した。アメリカ合衆国の1920年代の経済成長の中で、大量生産・大量消費が行われ、アメリカ人は物質的な豊かさを経験した。それを牽引したのが自動車産業であり、フォード社のT型モデルがベルトコンベアシステムで大量生産され、価格の低下によって一般大衆が購入できるようになった。同時に関連した石油産業が急速に成長し、道路建設やタイヤ産業も興った。また月賦販売が一般化して、セールスマンが花形職業として脚光を浴び、宣伝業も一大市場となった。このような大量消費社会の形成を反映して、文化の面でもラジオや新聞などのマスメディアが発展し、音楽・演劇でジャズの流行のように大衆化が著しく、また新たな大衆娯楽として映画なども生まれた。1920年代は経済の繁栄を背景とした、「ローリング・トゥエンティ」といわれる現代大衆文化が開花した時代でもあった。

共和党の三代

 1920年代、「繁栄の時代」にはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの三代の共和党大統領が続いた。
  • ハーディング:在任1921~23 ワシントン会議を提唱して協調外交では功績を挙げたが、内政では汚職が多発したり、自身の女性スキャンダルもあって低迷した。任期途中に死去し、副大統領のクーリッジが昇格した。
  • クーリッジ:在職1923~29 無口で愛想が悪く「何もしない大統領」と言われたが、未曾有の経済の繁栄はその自由放任主義がちょうどよかった。外交面では国務大臣ケロッグが活躍して、1928年に不戦条約を成立させた。
  • フーヴァー:在任1929~33 商務長官として企業や高額所得者への税制優遇など企業よりの政策を推進し、1929年「永遠の繁栄」を謳歌するアメリカの大統領として当選したが、直後に世界恐慌が始まる。それにたいしては彼は政府は経済になるべく介入しない方がいいという信念から、対策を立てなかった。

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アメリカ合衆国(7) 世界恐慌・第二次世界大戦

1929年に世界恐慌が起こると、共和党政権はその対応に失敗、1933年から民主党F=ローズヴェルトがニューディールを掲げて経済を再建に取り組んだ。世界的なファシズムの台頭から第二次世界大戦が勃発すると、アメリカは連合国を主導し、ドイツ・日本の枢軸国と戦って勝利し、戦後世界の主導権を握る一方、戦後はソ連を中心とした社会主義圏との冷戦を展開した。

世界恐慌期のアメリカ

 1929年春、大統領に就任したフーヴァーは「永遠の繁栄」を国民に約束したが、その年の秋10月24日にはニューヨークのウォール街での株式の大暴落が始まり、世界恐慌に見舞われることとなる。1931年6月にはフーヴァー=モラトリアムを示して、大恐慌の世界への波及を食い止めようとしたが、手遅れとなった。
ニューディール政策 この資本主義経済の破綻は、英仏のブロック経済体制、独伊日などのファシズム国家の登場をもたらし新たな世界分割戦争を引き起こした。アメリカは民主党F=ローズヴェルト大統領が1933年3月に打ち出したニューディール政策で、豊かな国内資源を背景にした国内購買力の増強に努め、この危機を乗り切ろうとした。ここでとられた経済政策は、資本主義に一定の修正と制限をかけるもので、経済学者ケインズによって理論化され、戦後においても、民主党政権で継承された。
ファシズムの台頭 ニューディールが開始された1933年、ヨーロッパではドイツのヒトラーが政権を獲得、イタリアとともにファシズム体制をつくりあげ、ヴェルサイユ体制の打破を主張して大きな脅威となっていた。またアジアでは日本はすでに1931年の満州事変によって中国大陸侵略を開始、アメリカの利益と衝突し始めていた。これらの動きに対してF=ローズヴェルト政権は1933年11月ソ連を承認しドイツ、日本を牽制した。また、ラテンアメリカ諸国に対しては善隣外交と言われる強調方針に転換し、キューバに対するプラット条項を廃止した。しかし議会は、1935年8月中立法を制定、従来のアメリカ外交の基本である孤立主義を維持した。

第二次世界大戦とアメリカ

 しかし、ドイツ・イタリア・日本のファシズム国家は枢軸国を形成し、軍事力による領土拡張を押し進めた。アメリカは当初、ヨーロッパの戦争に介入しないという伝統的な姿勢を守っていたが、F=ローズヴェルト大統領は次第にイギリス支援に傾いていった。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始され、翌40年にはドイツ軍がフランスを降伏させたため、単独で戦うことが困難となったイギリス首相チャーチルがアメリカに軍事支援を要請、それを受けたF=ローズヴェルトは議会に諮り1941年3月武器貸与法を成立させ、連合国に対する支援を武器貸与という形で実行した。6月には独ソ戦が開始されると、武器貸与法をソ連にも適用、アメリカは戦車、飛行機などをソ連に供与した。さらに同年8月にはチャーチルと大西洋憲章を発表して戦争協力と戦後の国際平和維持機構の設立で一致した。この段階ではアメリカは参戦していないが、事実上、連合国の一員として対枢軸国の戦争に加わるという、アメリカの外交政策の大転換を遂げた。
アメリカの参戦 1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃は、アメリカの参戦に口実を与えた。ドイツ、イタリアとも宣戦布告したため、アメリカはヨーロッパ戦線へも直接兵員を送り、連合国側の主力となって戦うこととなった。日米間の太平洋戦争は、42年6月のミッドウェー海戦を機に形勢を逆転させ、11月にはアフリカに上陸、地中海方面で反撃を開始した。43年7月にはイタリア半島に上陸し、イタリアは降伏した。同年8月から始まったスターリングラードの戦いではソ連軍がドイツ軍の侵攻をくい止め、戦争の帰趨はほぼ決定的となった。
 武器貸与法を成立させ「民主主義の兵器廠」となったアメリカは軍需工業の拡張によって雇用が増え、さらに参戦によって国内産業の労働力は不足し、完全雇用を達成した。アメリカは戦争景気によって世界恐慌以来の失業問題を解決し、戦後の経済発展の基礎を築いたのだった。
F=ローズヴェルトの戦後構想 この間、F=ローズヴェルト大統領は連合国の中核として戦争をにないつつ、積極的に連合国首脳と会談を重ね、連合国の戦後処理構想の主導権を握っていった。一方でマンハッタン計画といわれる原子爆弾の開発に着手した。1945年2月4日、ローズヴェルトはヤルタ会談で、ソ連のスターリンとの間で最終的に国際連合の設立、ドイツの分割、ソ連の対日参戦などで合意に達し、会談後の45年5月に死去した。同月、連合国はサンフランシスコ会議において国際連合憲章を採決し、F=ローズヴェルトの意志に基づき、国際連合を発足させた。
第二次大戦の終結 1945年5月についにドイツの無条件降伏に至り、残った日本に対して7月にポツダム会談で無条件降伏を勧告、トルーマン新大統領は原子爆弾の使用を決定し、8月に広島・長崎で実行した。同時にソ連の対日参戦が実行され、8月15日、昭和天皇がポツダム宣言受諾を表明し、日本の無条件降伏、正式には9月2日に降伏文書に調印し戦争は終わった。

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アメリカ合衆国(8) 第二次世界大戦後のアメリカ

第二次世界地戦後のアメリカは国際連合を主導すると共に、西側資本主義陣営の盟主として社会主義ソ連を封じ込める政策を採り、冷戦を展開した。50年代には圧倒的なアメリカの経済力を誇ったが、国内では人種問題などの社会問題が表面化した。

冷戦期のアメリカ

 戦後の冷たい戦争といわれた時期にはソ連を中心とした社会主義・共産主義圏に対する自由世界を守るという理念が前面に出され、アメリカは西側自由世界のリーダーとして軍事面、経済面での役割を担っていくという、新たな帝国主義の性格を持つようになった。 → 冷戦期のアメリカ外交
 1946年1月10日、第1回国際連合総会は、ロンドンで開催され、加盟51カ国の一つとしてアメリカも参加、安全保障理事会(安保理)の常任理事国としてその中核を担うことになった。早くも安保理ではドイツ問題やイラン問題でソ連が拒否権を発動、アメリカ・イギリス・フランス・中国(中華民国)との対立が明確となった。
封じ込め政策 F=ローズヴェルト民主党政権を継承したトルーマン大統領は国際協調の姿勢を崩さなかったが、ソ連との対抗を意識して1947年、トルーマン=ドクトリンを発表して共産主義との全面対決を打ち出し、共産圏に対する封じ込め政策を取った。1947年6月5日、国務長官マーシャルの発表したマーシャル=プランはヨーロッパ諸国の復興を援助することをテコにその共産化を阻止するための介入であった。スターリン体制のもとにあったソ連は、東欧圏に勢力を伸ばし、冷たい戦争といわれる米ソ大陸を軸とする東西対立は深刻化していった。共産圏の情報を収集し、反米活動を妨害する大統領直属の諜報機関として中央情報局(CIA)が設置されたのも1947年であった。
NATO結成へ 1948年6月にはアメリカ議会がヴァンデンバーグ決議でヨーロッパでの軍事同盟への加盟を認めたことで、アメリカは西ヨーロッパ資本主義陣営と軍事同盟を結んでソ連を封じ込めるという、重要なアメリカの外交政策の転換に踏み切った。1948年6月20日のドイツの西側管理下地域での通貨改革を強行、反発したソ連が6月24日ベルリン封鎖に踏み切り、ベルリン問題がもちあがった。
 1949年1月には、ソ連・東欧圏諸国はコメコンを発足させて経済面でも結束を強めたことを受け、1949年4月にアメリカなど西側陣営は北大西洋条約機構(NATO)を結成して、軍事的対ソ包囲網を構築した。

朝鮮戦争とマッカーシズム

朝鮮戦争 冷戦下において、アジアにおいては1949年の中華人民共和国の成立に伴って緊張が高まり、翌1950年6月、朝鮮戦争が勃発、アメリカは国連軍という形を取りながら出動した。アメリカは共産主義の脅威に対しては武力行使も辞さない姿勢をとり続けたが、実際には中国に対する直接介入は避け、共産党の大陸支配を許し、朝鮮戦争では介入したがようやく共産勢力を北緯38度線で食い止めることで停戦した。これはトルーマン政権が東西冷戦下でヨーロッパにおけるソ連とにらみ合い続いていたために余裕がなかったためであるが、アジアでの共産勢力の台頭を危険視する反共主義者が民主党政権への批判を強める口実となった。1952年2月、共和党のマッカーシー議員がアメリカのアジア外交の弱腰の原因は、国務省の中に共産党員がいるためだと告発したとき、アメリカ中が大騒ぎになり、マッカーシズムといわれる「赤狩り」の嵐が吹きまくることになった。マッカーシーの告発は根拠のないものであったが、政府内部だけでなく、学会、芸能界でも次々と共産党員、あるいはそのシンパだと疑われるものが告発され、追放された。
共和党アイゼンハウアー政権 マッカーシズムが猛威をふるう中で行われた大統領選挙で民主党は敗れ、共和党アイゼンハウアー大統領が1953年1月に就任した。20年ぶりに復活した共和党政権は、まき返し政策として対ソ強硬策を打ち出したが、ソ連でスターリンが死去するという変化が生じた。そのため、1953年7月27日には板門店での朝鮮休戦協定が成立した。アメリカ国内でもマッカーシーの根拠のない追究が批判されて1954年12月に上院がマッカーシー非難決議を可決して、ようやく沈静化した。
平和共存と核開発 1956年にはスターリン批判が始まったことから平和共存の気運が出てきた。しかし、それは軍事力での対等と言うことを前提としていたため、米ソ両国はきわどい核兵器開発競争を展開した。この時期の平和共存とは、核戦力のバランスを取ることで平和を維持しようという、本質的平和とは程遠い「平和」であった。 → 冷戦とアメリカ外交
 平和共存時代のアメリカに大きな衝撃となったのが1957年8月のソ連の大陸間弾道ミサイル実験成功、さらに1957年10月のソ連の人工衛星打上成功であった。特に後者は、宇宙開発でソ連に後れを取ったことで“スプートニク・ショック”といわれる衝撃であった。
 この軍拡競争は軍と産業界が結びついて巨大な利権を生むことが懸念されるようになり、ケネディに大統領の座を譲ることになったアイゼンハウアー大統領が1961年に軍産複合体の巨大化に警告を発するほどになった。

1950年代のアメリカ経済の繁栄

 第二次世界大戦における先進国で、唯一、直接的に本土が戦場とならず、産業基盤を維持できたことは、戦後の世界経済の中でアメリカの一人勝ちという状態をもたらした。冷戦の中でソ連と共産圏と対峙しながら、国内は1950年代から経済の繁栄がもたらされた。
 1950年代のアメリカの繁栄を象徴するものが、「テレビ、プレスリー、マクドナルド」である。テレビは本格的な商業放送が戦後まもなく始まり、またたく間に普及し、57年には各家庭に1台の割合でテレビを所有するようになった。テレビではフットボール、野球、バスケットボールなどが中継され、プロ・スポーツは巨大な産業となった。また「パパは何でも知っている」「ビーバーちゃん」「アイ・ラブ・ルーシー」など中産階級や移民家族を描いたホームドラマが盛んに放映された。50年代には世界中の若者を熱中させたエルビス=プレスリーが登場した。プレスリーは黒人のリズム・アンド・ブルースと南部の白人のカントリー音楽を融合させ、ロックンロールという新しいスタイルを作りだし、ベビーブーマーに圧倒的に支持された。マクドナルドのチェーン店第1号が登場したのも1954年、カリフォルニアだった。翌年にはロサンジェルス郊外にディズニーランドが開業している。消費の際に支払いを容易にするクレディットカードも50年に作られ、その後急速に普及した。このように現代の世界を席巻したアメリカ文化は1950年代に出そろったと言える。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.38>

ケネディの登場

 1960年の大統領選挙で共和党ニクソン候補を破って民主党ケネディが当選、1961年1月20日に就任した。彼は史上最年少の43歳、ニューフロンティア政策を掲げ、経済繁栄にかげりの見え始めたアメリカに活力を与えようとした。外交ではベルリンの壁の構築や1962年10月22日キューバ危機に直面したが、冷静に対処して乗り切り、国民の信望を勝ち得た。国内では黒人の公民権運動キング牧師に指導されたワシントン大行進に見られるように高揚し、ケネディ政権も公民権法の制定準備を開始した。しかし、ケネディ時代にインドシナ情勢が悪化し、ベトナム戦争への危機が始まった。強硬姿勢を取り始めていたケネディであったが、1963年、南部を遊説中に暗殺され悲劇の大統領となった。

アメリカ合衆国(9) ベトナム戦争

資本主義の繁栄を維持しなければならないという自縛から、1965年、東南アジアの共産化を防ぐ意図でベトナムに介入、ベトナム戦争が始まる。しかし、ベトナム民衆の抵抗を受け、戦争が長期化し、アメリカ財政を圧迫、また国際政治での主導権も動揺する。

公民権法制定とベトナム戦争

 ケネディ民主党政権を継承したジョンソンは「偉大な社会」の建設を提唱し、国内では1964年7月公民権法を成立させたが、ベトナムでの対応は軍事色を強め、1964年8月2日に起こったトンキン湾事件を口実に最初の北爆を行い、翌1965年2月7日からは北ベトナムに対する北爆を恒常化させ、さらに1965年3月7日に地上軍も派遣して南ベトナム政府を支援、北ベトナム軍と南べトナム解放民族戦線との全面戦争であるベトナム戦争を本格化させた。ベトナム戦争は当初の予測を超えて泥沼化し、戦後世界とアメリカのあり方を大きく変える要因となった。後に明らかになったのは、トンキン湾事件はでっち上げられた面が強く、この戦争はアメリカが冷戦下のアジアでの覇権を維持するために行われたものであった。
アメリカの1968年  ベトナムでは南べトナム解放民族戦線1968年1月30日、旧正月(テト)を期して一斉に攻勢に出た。このテト攻勢からベトナム戦争は形勢が逆転、アメリカ国内でも反戦運動が激化し、ジョンソン大統領は追いつめられた。足下の共和党からもマッカーシーとロバート=ケネディ(ケネディ大統領の弟)が停戦を主張し、大統領選挙への出馬を表明、3月31日についにジョンソンはベトナム和平協議を提唱、同時に大統領選挙不出馬を表明した。
相次ぐ暗殺 ところがその4日後の4月4日、メンフィスでキング牧師が暗殺され、黒人の不満も頂点に達し、全米168の都市で暴動が発生した。ワシントンでは鎮圧のため軍隊が出動、白人も反撃に出てアメリカの亀裂は覆いようもなくなった。ロバート=ケネディは遊説先のインディアナポリスで黒人スラム街に乗り込み、暴力の停止を訴えた。懸命に融和を呼びかけるロバートに“もう一人のケネディ”を呼ぶ声が高まってゆき、民主党大統領候補として最有力になったが、こんどは6月5日、ロサンゼルスでロバート=ケネディ上院議員が銃撃され、死んでしまった。犯人はパレスティナ人で、アメリカのイスライル寄りの外交姿勢に対する反発が理由だった。
民主党の動揺 その2ヶ月後、シカゴで開催された民主党全国大会でハンフリーが大統領候補に指名されたが、対立候補マッカーシーを支持する代議員は「ウィーシャルオーバーカム」を合唱して抵抗、会場外でも学生・若者を中心とした群衆が警察と衝突、流血の争乱状態となった。ジョンソンは5月から始まっていたベトナム戦争のパリ和平会談を成功させることで後継者ハンフリーへの支持が高まることを狙ったが、交渉は進展せず、11月の一般選挙では、「名誉ある和平」(アメリカ軍を撤退させるが南ベトナム政府は存続させること)と「法と秩序」(過激なベトナム反戦運動を取り締まること)を掲げた共和党ニクソンに小差(約50万票)で敗れた。ニクソンは民主党の内部対立を尻目に、実務経験と若さを武器に、共和党政権を復活させた。
スチューデントパワー この年は世界各地でスチューデントパワーと言われた学生運動が起こっており、アメリカにおいてもカリフォルニア大学バークレー校の反乱に始まり、ベトナム反戦運動ブラックパワーと結びながら、拡大していった。学生・青年の間にはヒッピーと言われる自由なライフスタイルを実践するものが急増しカウンター・カルチャーと言われた。ウッドストックのロックコンサートが開かれたのもこの年であった。しかし、政治的運動は政府の取り締まりの強化と内部分裂によって、次第に低迷していった。

ドル=ショック アメリカ一極構造の崩壊

 1950~60年代は、アメリカ経済は他の資本主義国を圧倒し、アメリカ一極体制とわれる状況であったが、ベトナム戦争が長期化する中、アメリカ経済の行き詰まりが深刻になっていった。1969年1月ニクソン大統領就任後、7月20日アポロ11号の月面着陸が成功して、アメリカの威信は回復されたかに見えたが、アメリカ経済は金の流出が止まらず、密かに崩壊に向かっていた。1971年8月15日、ニクソン大統領はドル防衛のためにドルの金兌換を停止する措置に踏み切り、世界を驚かせてドル=ショック(ニクソン=ショック)といわれた。これによって世界は変動為替相場制に移行し、さらに1973年10月第1次石油危機(オイル=ショック)に見舞われた。その一方で、ヨーロッパの統合が進み、あわせて日本の高度経済成長が進んだこともあって、1970年代にはアメリカ一極構造は崩れ、三極構造に変化していった。
もう一つのニクソン=ショック ドル=ショックはニクソン=ショックとも言われたが、もう一つのニクソン=ショックと言われるのは、1972年に電撃的にニクソンの訪中を実現させ毛沢東と会見し、国交回復への道筋をつけてたことであった。これはキッシンジャー特別補佐官の手腕によるものであったが、アジア情勢を大きく転換させる出来事となった。
ウォーターゲート事件 しかしニクソンは、ウォーターゲート事件で大統領選挙中の不正行為があばかれ、1974年8月、任期途中で辞任せざるを得なくなった。現役大統領が生存中に辞任したのは初めてのことであり、副大統領のフォードが昇格したが、大国アメリカの権威が著しく低下することとなった。
ベトナムでの敗北 ニクソンの訪中の具体的な目的は、中国共産党毛沢東と手を結ぶことによって北ベトナムに圧力をかけることにあった。さらに北ベトナムによる解放戦線支援を断つために、カンボジア侵攻ラオス空爆を行った。しかし、北ベトナム軍および解放戦線の動きを封じることはできず、ベトナム戦争は明らかに行き詰まった。国内経済の悪化も打撃となり、ニクソンはついに1973年ベトナム(パリ)和平協定を締結し、同年3月にアメリカ軍のべトナム撤退に踏み切った。アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府軍は急速に衰え、75年には北ベトナム軍によりサイゴンが陥落し、戦争は終結した。

ベトナム戦争の歴史的意義

 ベトナム戦争はアメリカが直接介入した時期でも8年(1965~73年)におよび、アメリカが経験した最長の対外戦争となり、多大な人的損失だけでなく、アメリカ国民のなかに深刻は敗北感を残して終わった。同時に、世界におけるアメリカの大国としての威信が揺らぎ、世界経済では西ヨーロッパ諸国(EC)と日本が台頭して三極構造へと転換していくこととなった。冷戦構造はつづいていたが、このころ、ソ連を中心とした東側社会主義圏でも経済の停滞、政治の硬直、人権の抑圧といった問題が進行していた。70年代後半から80年代は東西の体制がそれぞれ揺らぎ、東西冷戦が終結に向かうこととなる。

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アメリカ合衆国(10) 冷戦終結とその後

 1980年代のアメリカは共和党レーガンとブッシュ(父)の「強いアメリカ」を掲げた外交と、新自由主義経済政策がとられたが、東西冷戦終結後は唯一の超大国としての単独行動が顕著となり、中東での軍事行動はイスラーム教徒の反発を受け、2000年の同時多発テロに見舞われ、テロとの戦いの時代に入った。国内では貧富の差の拡大、民族問題を抱えて混迷が続き、クリントン(民主)→ブッシュ(子)(共和)→オバマ(民主)と8年ずつの政権交代が続いている。

カーター民主党政権

 ニクソン→フォードの共和党政権にかわり、1976年大統領選挙で民主党カーターが当選、ふたたび民主党政権となった。カーター政権はパナマ運河の返還(新パナマ運河条約)に見られるように強権的な外交を改め、人権外交を掲げて国際協調に努め、エジプト=イスラエルの和平交渉の仲介、米中国交正常化の実現、ソ連とのSALT・Ⅱの合意など成果を収めたが、79年のソ連軍のアフガニスタン侵攻イラン革命の勃発と1979年アメリカ大使館人質事件という難局に直面してその外交手段が弱腰であると非難された。
 国内では、1979年にスリーマイル島原子力発電所で重大事故が発生、それを機に経済コスト優先で進めていた原発政策を転換し、原子力発電所の新設を停止した。

レーガン=ブッシュ政権

 1980年の大統領選挙で政権を奪回し、1981年1月に就任した共和党レーガンは、カーター民主党政権の外交を弱腰と非難、「強いアメリカ」を再建することを掲げた。ソ連を「悪の帝国」ときめつけ、「戦略防衛構想」(SDI)によって核武装を強化し、伝統的なカリブ海への強権外交を復活させてカリブ海域への介入を復活させ、ニカラグアエルサルバドルグレナダに介入した。
 内政においては、民主党のニューディール以来の国が経済に介入して公共事業などを通じて雇用を創出し、社会保障や労働者保護によって国内需要を増やしていくというケインズ的な経済政策を否定し、共和党は減税・規制緩和・民営化・社会保障費削減を柱としたレーガノミクスといわれる経済政策を前面に打ち出した。これは70年代のイギリスのサッチャー政権が採用した新自由主義の経済政策と同じであり、当面は効果が上がり経済は持ち直したかに見えたが、次第に貧富の差の拡大、その結果としての税収減による財政赤字、日本やECとの貿易摩擦による貿易赤字の「双子の赤字」に見舞われることとなった。アメリカは債権国から債務国(負債が債権を上回る状態)に転落し、1985年9月の先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁によるプラザ合意で、各国がドル安に協力してアメリカ経済を救済した。しかしアメリカの貿易赤字は解消されず、1987年10月にはその不安感から株価の大暴落(ブラックマンデー)が起こった。
 二期目の1985年にソ連でゴルバチョフ政権が登場し、ペレストロイカによる民主化が進むとレーガンは柔軟に対応し、1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。1989年には東欧革命が一気に進み、レーガンを継承して大統領となったブッシュ(G.H.W)父は、その1989年12月2日にゴルバチョフとマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言した。

ポスト冷戦期のアメリカ

 さらに1991年にソ連の解体が現実になると、世界では民族対立や宗教的対立など地域紛争が多発するようになり、そのような中でアメリカが唯一の軍事大国として単独行動主義(ユニラテラリズム)をとる場合も増え、19世紀末の帝国主義とは違った意味で、現在のアメリカ合衆国の「帝国」としての存在がきわだつようになった。イラクのフセインがクウェートに侵攻したことに対しては、1991年1月に多国籍軍を編成してイラクを攻撃する湾岸戦争を決行した。その後もアメリカは軍隊を広く中東に駐屯させ、「世界の警察官」とみなされるようになった。 → 冷戦終結後のアメリカ外交
民主党クリントン政権 1992年の大統領選挙で現職ブッシュを破り当選し、1993年1月に就任した民主党クリントンは、マイノリティ(少数民族)や女性の権利の問題などに積極的に取り組み、またIT時代の到来を背景とした好景気に見舞われて雇用を増大させ、アメリカ経済の回復に成功した。外交では人道的介入と称してNATO軍のボスニア介入を容認したり、アフリカのルワンダやソマリアの紛争に介入したが大きな成果は得られなかった。また共和党の協力を得て、カナダ・メキシコなどとの自由貿易協定である北米自由貿易協定を成立させた。大統領官邸での女性スキャンダルを起こし、弾劾裁判は免れたが人気を落とした。

テロの多発と単独行動主義

共和党ブッシュ(子)政権 2000年の大統領選挙は共和党のブッシュ(G.W.)(子)と民主党のゴアの間で行われ、大接戦となってブッシュが勝った。2001年1月、ブッシュ政権が成立すると、2001年9月11日に9・11同時多発テロが起こり、アメリカは対テロ戦争に突入、2001年10月にアフガニスタン攻撃に踏み切った。さらに、2003年3月にはイラク戦争と海外派兵が続いた。
単独行動主義の傾向 対テロ戦争を単独で行うアメリカは、急激に単独行動主義(ユニラテラリズム)が強まった。包括的核実験禁止条約(CTBT)への批准は依然として拒否し、旧ソ連との迎撃ミサイル制限条約(AMD)から一方的に離脱しただけでなく、世界環境問題での2001年3月の京都議定書からの離脱、2002年5月の国際刑事裁判所(ICC)参加への署名撤回、などにその姿勢が現れた。 → アメリカの外交政策
 2008年にはサブプライム問題からリーマン=ショックと言われた急激な金融不安が発生し、戦後最大の経済危機となった。その後の経済不振から脱却できないまま、2008年大統領選挙は、共和党の後継マケインが民主党の初の黒人大統領候補オバマに敗れ、政権交代となった。

揺れる二大政党制

民主党オバマ政権 オバマ政権は二期(2009~2017年)にわたり、オバマケアと言われた国民皆保険制度を実現したり、社会保障の充実や同性婚の容認などの進歩的な政策を打ち出し、プラハで核なき世界を実現させることを演説してノーベル平和賞を受賞するなど、理想主義的な政治を行ったが、キューバやイランとの国交回復やアフガニスタン、イラクなどに対する消極的な姿勢は、保守勢力に「強いアメリカ」の時代の復活を叫ばせる余地を与えた。
2016年大統領選挙 2016年11月8日、大統領選挙で、大方の予想を覆して共和党トランプが民主党ヒラリー=クリントンを破り勝利した。一般投票ではクリントンが48.1%、トランプが46%であったが、フロリダ州、オハイオ州、アイオワ州、ペンシルヴェニア州、ミシガン州などでトランプ氏が上まわったため、トランプが選挙人306を獲得、クリントンの232を上まわって当選した。オバマ政権8年間がリベラル寄り過ぎると感じていた保守層が動き、特にそれまで民主党の基盤と言われていたペンシルベニアやミシガンなどの「ラストベルト」といわれる工業地帯での失業や賃金低下などがトランプの「アメリカ、ファースト!」という声を押し上げたと考えられている。アメリカの現行大統領選挙では、二大政党以外の政党には全州で選挙人を獲得することは困難で、二党間の政権交代が続いている。それは一党のみが長期政権を続ける事が出来るシステムから比べれば「健全な」政権交代とも見ることができので、トランプ政権登場は驚くべき事ではない。しかし、別な見方をすれば二党の他に選択する余地がない中で、二党間で政権をやりとりをしているだけとも言える。その場合、勝つのは大衆的(しばしば特定の人種や宗教の集団の)支持を得るための膨大な資金を調達するこのが出来る方、となってしまうことが多い。現在の共和党と民主党は、政策の違いや保守派とリベラル派という色分けよりも、どちらが集票マシーンとして大統領選挙に勝つか、と言うことを競っているだけになっている、とも指摘されている。
共和党トランプ政権 2017年1月に就任したトランプ大統領は「America First!」「Make America Great Again!」を選挙スローガンに掲げ、具体的には不法入国者を遮断するためにメキシコとの国境に壁を築くことなどを公約した。移民を排除する姿勢はもともと移民の国であるというアメリカの理念に反することであるが、生活を脅かされていると感じていた中下層の国民には受けの良い政策であった。またオバマ政権が進めた社会保障制度や中絶の許容などがリベラル過ぎるという不満を持っていた保守派は、それらを社会主義や極左、あるいは反キリスト教的だとして攻撃していた。また従来の新聞やテレビの大手は偏っているとして非難を強め、ツィッターなどSNSなどと使った情報発信を駆使する戦術をとった。
 それはオバマ政権の外交政策での協調主義や「核なき世界をめざす」などの姿勢が、軟弱でありアメリカの国益に反するという批判と結びつき、トランプ政権はもともとアメリカ外交の中に伝統的に存在していた孤立主義から単独行動主義が保守主義と結びつくという特徴の表れともみることができる。つまり、長い歴史的スパーンで見れば、これまであった流れが一時的に強まった現象といえるが、トランプ政権下ではそれが顕著に表れ世界にも重要な影響を与えた、といえる。しかし、トランプの手法が伝統的なアメリカの孤立主義・保守主義と決定的に異なる点は、大衆的な支持を得るために従来のマスコミを叩き、陰謀論に近い根拠のない情報をSNSで拡散して人々を煽動するという手法を採ったことだった。
 トランプ外交のアメリカ第一主義は、気候変動に関するパリ協定からの離脱、世界保健機関(WHO)からの脱退通告、国連人権理事会からの離脱(2018/6/19)、イラン核合意の放棄、中距離核戦力(INF)全廃条約の破棄、新STARTの延長拒否など、立て続けに現れた。また、イェルサレムへの大使館移転、2018年6月北朝鮮の金正恩との会見などでも独自の行動を展開した。
 国内では、2020年2月から、世界的な新型コロナウィールスによるパンデミックが始まったが、トランプ政権はその発生源が中国であるとして非難を強めたものの、国内の対応に遅れが出て政権批判につながった。国内の反トランプの声は、2020年5月25日にミネアポリスで起こった白人警官による過剰警備によって黒人が死亡した事件をきっかけに、黒人の抗議活動であるBLM運動が全国的に広がった。
2020年大統領選挙 世界中が新型コロナウィールス蔓延というパンデミックに見舞われている中、共和党現職トランプ大統領に対して民主党からオバマ政権での副大統領バイデンが立ち、選挙戦となった。トランプは74歳、バイデンは78歳という高齢者同士の戦いとなった。2020年11月3日に行われた大統領選挙では、コロナ禍の中での郵便投票が増えたことによって投票率が高く(66.7%)なり、結果はバイデン(副大統領候補タマラ=ハリス)が一般投票8126万(51.3%)、選挙人306,トランプ(同ペンス)一般投票7421万(46.8%)となり、バイデンが選出され政権が交代した。
 ところがトランプは、選挙に大規模な不正があったとしてその結果を受け入れず、「選挙は盗まれた」と大宣伝を繰り広げた。それは郵便投票と集計で組織的不正が行われた、と言う主張であったが、その訴えはいずれも裁判所で証拠不十分として却下され、根拠のない陰謀説に終わった。
トランプ退陣に伴う大混乱 翌2021年1月6日に選挙結果と新大統領を承認する議会の開催中に、支持者に抗議集会への参集を呼びかけ、それに応えて多数が議会に乱入するという事件を起こした。議会制民主主義の象徴とも言える連邦議会が無秩序な状態に置かれ、議員は議場を離れ、乱入者が議場内を一時的にであれ占拠するという事態は世界を驚かせた。1月20日の新大統領の就任式には、前大統領として出席するという慣行を破り、トランプは出席せずホワイトハウスを出てフロリダの別荘に向かった。議会ではトランプに対する弾劾決議の動きが出て、民主党が賛成、共和党からも7人が賛成したが、すでに退任した大統領に対する弾劾は無効であるという主張もあり、全体の3分の2以上の条件には達せず、弾劾は成立しなかった。共和党員の中にはトランプの行動を認めないとしながら、地元でのトランプ支持者の票を期待せざるを得ないという事情があると言われている。7千万票以上というトランプ支持者の数は無視できない数字であるが、この一連の出来事で共和党の中のトランプ流のやり方を批判する声も大きくなっており、大きな岐路にあると思われる。

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書籍案内

チャールズ・ビーアド
松本重治/岸村金次郎/本間長世訳
『新版アメリカ合衆国史』
岩波書店

五十嵐武士/福井憲彦
『アメリカとフランスの革命』
1998 世界の歴史21
中央公論新社

猿谷要
『物語アメリカの歴史』
1991 中公新書

大下尚一他編
『史料が語るアメリカ』
1989 有斐閣

杉田米行
『知っておきたい
アメリカ意外史』
2010 集英社新書

意外とまじめなアメリカ意外史。

志野靖史
『カンバッジが語るアメリカ大統領』
2010 集英社新書

大統領選挙のキャンペーンバッジに見るアメリカ史。

阿川尚之
『憲法で読むアメリカ史』
2013 ちくま学芸文庫

ジェームス・バーダマン
『ふたつのアメリカ史』
[南部人から見た真実のアメリカ]改訂版
2003 東京書籍

これは良い本です。一面的ではない、アメリカ史をわかりやすく語っている。

ジェームス・バーダマン
森本豊富訳
『地図で読むアメリカ』
2021 朝日新聞出版

和田光弘
『植民地から建国へ』
シリーズアメリカ合衆国史①
2019 岩波新書

貴堂嘉之
『南北戦争の時代』
シリーズアメリカ合衆国史②
2019 岩波新書

書籍案内

有賀夏紀
『アメリカの20世紀』上
2002 中公新書

有賀夏紀
『アメリカの20世紀』下
2002 中公新書

中野耕太郎
『20世紀アメリカの夢』
シリーズアメリカ合衆国史③
2019 岩波新書

古矢旬
『グローバル時代のアメリカ』
シリーズアメリカ合衆国史④
2020 岩波新書